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富永勸ヒストリー3

富永勸ヒストリー3
北野高校

昭和26年4月1日、大阪府立北野高校へ入学、ポタリとあだなされる国語の雫石先生が担任であった。入学直後、体力検定を兼ねて、陸上競技、水泳、柔道を選択して実技をすることになった。​​私は800メートル走を選び、1着になった。成り行きで陸上競技部に入部し、広島大学在籍の村上和義、京都大学在籍の近藤三郎と出会い、コーチとして指導を受けることとなった。

漢文の担当教師の福永光司先生との出会いがわが人生最高の幸運となった。劣等感の塊であった私の心を、荘子の『哀駘它』の逸話でいとも簡単に心の病を癒すのである。津田塾を出たばかりのおかっぱ頭の英語教師の須田知佐子先生にも度肝を抜かれた。先生は、授業の最初から最後まで英語で通した。

中学校で1番であった学生が北野高校の席次ではとんでもない席次になって愕然とする。私は中学で2番で卒業したが、450人いた1年生のなかで、1学期の期末試験の席次は98番であった。同じ中学から来た田中義明は箕面の山奥で頸を括って自死した。この後7人が続いた。朝日新聞は北枕高校とわれわれを揶揄した。

同級生に東京大学名誉教授の小松彦三郎、発明家の山本謙二(交通切符の券売機の感熱式印字)、杉村精二、志甫溥、岡本利男、秀才がゴロゴロしていた。女性では岡田美年子、大倉光子が哲学を語っていた。岡田美年子は突然手紙で『パンセ』について私に議論を吹っかけてきた。大倉光子は倉田百三の『出家とその弟子』について話しかけてきた。

北野高校の友人関係は中学時代とは全く違った。山本謙二は幼稚園のころから、帝国海軍の仕事をしていたらしい。潜水艦のソナーの音を聞き分ける訓練を手伝っていた。ピアノが抜群にうまく幼稚園児のとき既に絶対音感を持っていた。音楽の時間にはリストの『ラ・カンパネラ』、ショパンの『英雄ポロネーズ』、ベートーベンの『熱情』を弾いてくれ、音楽を選択したわれわれをすっかりピアノの虜にしてしまった。

翌年1月31日に酷い腹痛に襲われて学校を早退して帰宅した。盲腸の疑いで中村医院に入院した。白血球の数値が高いので盲腸と断定して手術をした。ところが翌日から三日三晩、下血が続き阪大病院に転院した。病名は腹性紫斑病。阪大病院にも同じ病歴のカルテは1例しかなく手探りの治療が続く。毛細血管が破れて身体のあちこちに症状があらわれた。毎日、売血を買って輸血した。腎臓、肝臓、脾臓、挙句のはては院内感染で破傷風にまでなった。まだ牛馬が荷車を引いていた時代であった。

陸上競技の近畿大会に出場できないことを嘆いている私を慰めてくれたのは読書であった。病床での日記から拾うと、夏目漱石、ワーズワース、中原中也、芥川龍之介、太宰治、スティーヴンスン、ストリンドベリ、山本有三、エドモンド・ロスタン、ヴァン・ルーン、谷崎潤一郎、モーパッサン、久米正雄、トルストイ、北原白秋、石川啄木、永井荷風、倉田百三、マーガレット・ミッチェル、樋口一葉、ツルゲーネフ、マーク・トゥエイン、ゲーテ、森鴎外、宮城音弥、桑原武夫、島木健作、デフォー、坪内逍遥、貝塚茂樹、三木清、出隆、ショーペンハウエル、斎藤茂吉、尾崎紅葉、小泉信三、ドストエフスキー、内村鑑三、島崎藤村、高山樗牛、井伏鱒二、川端康成、正宗白鳥、小林秀雄、河上徹太郎、シェイクスピアー、北条民雄、フロベール、アルベール・カミュ、ルナール、志賀直哉、ロマン・ロラン、アーネスト・ヘミングウェイ、コナン・ドイル、シュニッツラー、ディケンズ、西田幾太郎、新渡戸稲造、等々。読んでも訳のわからない本も多数あったが手当たり次第に読んだ。





年が明けて昭和28年(1953)2年生になり陸上競技部を休部して文芸部を再興した。梶井基次郎が「北野文学」を7号まで発行して以来休部していた。8号、9号を発刊した。部員に故岡本利男(共同通信社会部長)、米田正(翻訳家)、蓑和田明(文筆家)、中馬弘毅(元衆議院議員)、藤田ミハ子、長澤昭子、津村和子等がいた。後に演劇部にも席を置いてアルベール・カミュの『正義の人々』の演出をする。

一方で​​​​南国堂の商売は父の放漫経営が災いし窮地に陥っていた。父は一切何も喋らなかったが、銀行取引の口座が叔父(父の実弟、時良)名義になったり、住居の表札も福留時良になったりした。公認会計士(関西大学経営学部の教授)に会って事情を尋ねた。多くの仕入先に迷惑をかけたらしい。戦後の甘ければ何でも売れた時代は過ぎて全て手作業という時代は終わった。機械化して原価を徹底的に追求しなければならなくなっていた。

倒産を回避できたのは公認会計士の指導のたまものであった。母もこの一件については沈黙をまもった。私は父の苦しみを察することができなかった。 この文章を書くことになってようやく父を理解できなかったことを悔やむ。私は自分の家があるにもかかわらず住み込みの工員たちと雑魚寝をさせられることに不満を持っていた。この不満が果てしなく膨らんでいくことが母には分かっていたようである。

もう一つの問題は後継者として運命づけられて出生した事実であった。このことは親は認識していても当人には分からないことである。馬車馬のようこき使っても金はくれない。帳面上では払っていながら本人に渡さない。これらは父は知らないと思っていても当人は事実を推認している。

北野高校には誰もが自由に出入りできる音楽室にオーケストラ演奏ができるほどの楽器が殆ど揃っていた。ピアノも鍵がかけられていなかった。嬉しくて音楽部へも入部した。満州からの引揚者の1学年上の女性が​​​​​​ベートーベンの「月光」の第1楽章と、ショパンのプレリュード「雨だれ」を彼女の手ほどきのもと1小節、1小節、丸暗譜したのだった。後年も暇を見つけては反復練習していたので55歳頃まで弾けていた。しかし日本とヨーロッパの掛け持ちでチョコレート売買を始めたため、次第にピアノから離れたがこの演奏は随分私を慰めてくれた。また商売にも役立った。

この女性と恋に落ちた。彼女の父親は八幡製鉄所の大阪営業所長を勤めていて、機嫌の良い時はヴァイオリンを弾いてくれた。曲目はペルゴレージの「ニーナ」であった。私は彼女の家に入り浸りになっていた。父は私を労働力としか見ていなかったため衝突した。2回にわたって私は家出をした。

行く先があるわけでもなかった。1回目は広島にいる北野高校の陸上競技部の先輩でもあり、コーチでもあった村上和義さんを訪ねた。私の入院中には毎週手紙か葉書をくれていた。生きる意味とか、当時はやっていた実存哲学の話題が多かった。受験を控えていたこともあり、村上さんの口添えもあり、父に私をタダの労働力と見做さない約束を取り付けてくれたので家に帰った。しかし父は年末年始の繁忙期にはなくてはならない労働力として私をこき使った。

2回目は、2月の寒い日曜日の夜、京都に住んでいる福永光司先生の門を叩いた。先生は話を聞くとすぐ父に電話をかけ私の所在を告げ当分先生の家にいることになった。ところが北野高校の職員会議では「放校」処分が決まりそうになった。福永先生は私の正直さを力説され、先生預かりの処分になり、3ヶ月間先生の家に寄寓することとなった。

そこでの生活で私は一変した。先生は一体いつ寝ておられるのかを訝った。朝6時に目覚めると既に机に向かっておられ、夜12時に就寝の挨拶に行くとまだこれからだという趣で原稿を書いておられる。学者の生活は想像以上の肉体労働者のようであった。先生は京都大学中国哲学の吉川幸次郎のもとで荘子の研究をされていた。先生はご自身でも「学者も体力勝負なんだ」と仰っておられた。女性と別れて受験勉強に精を出した。そのきっかけを作ってくれたのは福永先生の教えであった。荘子の『哀駘它』の逸話が示され、幼少期より一人悩んでいた劣等感の塊を氷解させた。

哀駘它は荘子の内篇にある逸話。衛の国に哀駘它という世にも顔の醜い男がいるが、なかなか有徳の聞えが高い。その素晴らしい人格はすべての人々の敬愛の的であり、男で彼と一緒に過ごした者は、その徳をなつかしんで彼の側から離れ難くなり、女で彼を見た者は、その人物に魅せられて、「他の男の正妻になるよりは、いっそ、あの方の妾(めかけ)にでもなりたい」と親にねだる者が十数人を超える有様。けれども哀駘它別に自分偉さをひけらかして、他人をリードするわけでもなく、いつも他人と調子を合わせるばかりで、決して人の目に立つようなことはしない。」云々。福永光司『荘子』234頁、朝日文庫。

受験勉強は4月頃から始めた。何の準備もしていなかったので受験科目の少ない早稲田大学に焦点を絞って英語を主に勉強した。学校のサブリーダーは『蘆刈』の英訳、”The Sketch Book”、エドガー・アラン・ポー ”The Gold-Bug”,  “The Masque of the Red Death”『黒死病』、 標準英文解釈問題集(改定増補)であった。早稲田を狙うからには早稲田大学教授の龍口直太郎の「英文解釈(ブラッシュ アップ)」が良かろうと思い「豆単」と並行して構文を暗記した、日本史は前年に東大受験に成功した友人のノートを借りて勉強をした。国語・古文は何の準備もしなかった。

1952年6月24日、朝鮮動乱2周年記念の集会後、デモ隊と警官隊が衝突、60名が逮捕されるという吹田事件が起きた。多くの校友が逮捕された。陸上競技部のコーチである島原さんの大きな写真が新聞に掲載された。多くの教員たちは日教組問題で頭を悩ましていた。見知らぬオルグがずかずかと教室まで乗り込んでくることがあった。民青(日本民主青年同盟は全日本学生自治会総連合(全学連)の組織的な母体)の連中であった。吹田事件のあとは教室まで進入してくることはなかった。しかし南国堂のほうでは、合同労組(ごうどうろうそ、とは組合の無い中小零細企業の労働者が個人単位で加入できる組織)が団体交渉を強要する事件が起きるようになった。彼らは乱暴で角材やパイプを使って父を脅かすので、父は逃げ回っていた。

父に大学は早稲田大学に行きたいと頼んだ。父は快諾した。承諾した理由は私の東京市場開拓と引き換え条件であったからである。毎月6500円の送金を約束してくれた。

 

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