投稿日: 2004年9月12日
日本にチョコレートが入ったのは江戸初期、長崎経由で入ったといわれる。
しかし確たる文献は残っていない。
記録に残る最も古いものは、板倉遣欧使節団がフランスのチョコレート工場を見学した、というもの(第47巻。1月21日の日記に「チョコレート製造工場に至る。これも仏国の名産なる菓子なり...云々」とある。
岩波文庫「米欧回覧実記」(三))。
日本で初めてチョコレートを製造したのは東京両国若松町の風月堂である。
「貯古齢糖」の名で1878年(明治11年)に広告を出している。「明治事物起源」
■風月堂の米津松造■
明治11年12月11日の新聞「郵便報知」に、「菓子舖若松町の風月堂は、かつて西洋菓子を作って売出し、お客におおいに賞味されたが、今度はショコラートを新しく製造販売して“一種の雅味なり”と大評判」という内容の記事が出ている。これが新聞紙上に「チョコレート」という名前が載った最初だろう。
風月堂は同年12月25日、やはり「郵便報知」に自社製品の広告を、店主米津松造の名で出した。どんな菓子を売っていたかというと、
○西洋菓子各種 ○新発明ボンボン(祝日用飾菓子、西洋酒入数種数々効能あり)
○新製猪口合糖 果物味入 ○機械製有平糖 ○桃子糖漬 ○柑子糖漬
○仏手柑糖漬 各缶詰 ○新年辻占パピヨ(この品は西洋各国にて新年宴会の折戯れに供するものにて、至極面白きものなり)。
風月堂では「西洋人の良工を雇っ」て洋菓子を数種類作らせ、昨年の内国勧業博覧会に出品し鳳紋賞牌を受けた、と誇らしげに述べている。明治10年に開催された内国勧業博覧会はこれが第1回博覧会で、8月21日から11月30日まで。東京上野の会場には美術館、農業館、園芸館、機械館、東西の本館が建てられるという本格的な博覧会だった。
米津松造は日本で初めてチョコレートを製造販売した男なのだ。ただし、原料を輸入したわけじゃないらしく、半製品を輸入して加工したらしい。
この米津松造のことは、作家の小島政二郎が書いている(『舌の散歩』)。それによると松造は長野県上伊那郡伊那富村の生まれ。風月堂の総本家、東京京橋南伝馬町の本店に子どものころに丁稚奉公に入った。江戸時代からつづく老舗で屋号が大坂屋。
時代が明治に変わるころから、茶道で使われるような菓子が売れなくなり、風月堂も傾きかけたが、番頭の松造が大福餅のような一文菓子を作って売ることを考え、店売りだけではなく、大道売りをしてお店を支えた。松造さんは時世の移り変わりを見抜いて、機敏に対応したというわけ。
松造の才覚で店をつぶさずにすんだ風月堂は、その功績にノレン分けをして報いた。米津風月堂はこうして誕生した。しかし、松造は職人じゃなく、今でいう営業マンだったから店をやっていくには、腕の立つ職人が要る。そこで本家の職人頭とその弟弟子をもらいうけて店を始めた。
松造が洋菓子製造に進出したのは、彼が外国好きだったからだ。外国人のおおぜいいる横浜にしょっちゅう出かけていき、異人館づとめのコックなどに酒を飲ませて、西洋料理や菓子作りを教わったという。こういう積極性に、創意工夫が加わったのだ。
風月堂のワッフルというと、明治10~20年代に青少年期をおくった人たちには、思い出すだけでもたまらなくなる、天下の美味だったらしい。松造はこのワッフルにアンズジャムをはさんで売ったのだが、原料のアンズは故郷の信州産。酸味の強いところがジャムにするとうま味に変わるのだ。彼は和菓子でも、信州の柴栗を饅頭に使って故郷の農村経済に貢献している。この栗饅頭もうまかったと小島は書いている。
松造はビスケットの製造機械を輸入して、日清・日露の両戦役では軍に製品を納めて大儲けした。森永より前から作っていたキャラメルは、小島先生が食べたことがなくて残念ともなんともいいようがない、と書くほど美味だったらしい。しかし、風月堂のチョコレートの味については、残念ながら何とも書いていない。
月守晋 (チョコレート宇宙誌より)
筆者の友人、月守晋は長春に生まれ育った。彼の「大連は好いところだぜ、今ごろならアカシアの花が咲いているはずだ。アカシアの花を見てこい」の一言で今年は大連に行った。その後、上海、張家港にも行った。たぶん中国ベースのビジネスが立ちあがるであろう。筆者は1965年から青島のリンゴ・コンフィーを買っている。ポムダムールについては改めて書く。
写真: カカオ・ビーンズの石製ミル(アステカ時代)
ココアバター・プレス(垂直式・19世紀)
いずれもチョコヴィック社の所有
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