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初めての海外旅行(8)

投稿日: 2008年8月3日

初めての海外旅行(8)

1965年6月19日、ハンブルグからストックホルムへ。大阪青年会議所の国際委員会からのメッ
セージをストックホルム青年会議所へ伝える。翌日は長旅の疲れを癒すためスキャンセンで遊んだ。
北欧訪問の目的はデンマークのミクロベルク(Aasted-Mrkroverk)という製菓機械工場の見学にあっ
た。私は、1959年に大学を卒業すると同時に、夏期でも販売できるチョコレートの研究・開発に
没頭して、「ホップチョコ」という新製品を完成させ、発売にこぎ着けた。かなりの成功をおさめ鼻
高々であった。ところが1961年に明治製菓の「マーブルチョコ」が発売されると見向きもされな
くなった。

ホップチョコのセンターは、当時世に出たポリカーボネートという樹脂で作ったモールドに1.5グ
ラムのチョコレートを注入して円錐体を成形し、その円錐体の底面をレボルビング・パンで自動的に
2個合わせにして楕円球体にする。これに糖衣掛けした全く新しい糖衣チョコレートであった。大阪
のT製薬の糖衣錠を長年手がけていた定年退職者を迎えいれ、歯あたりを感じさせないほど薄い糖衣
掛けを実現した。1粒の重量は4グラムでちょうど口になじむ大きさであった。チョコレートも大人
向きの味ですこぶる評判がよかった。夏場にも強い本物チョコとして玄人筋にはうけた。T製薬会社
の子会社で、保健産業株式会社からビタミンCを大量に入れたOEM製品が自衛隊に納入され、儲け
は少なかったが量的には満足できた。
中小企業が生き残るためには大企業にないものを創る。競争のない製品を持っていなければならない。
しかるに明治製菓のマーブルチョコレートの味は子供向き、色も7色あって一般の流通菓子としては
価格も安くとてもかなわない。調べてみると明治製菓はデンマークのミクロベルク社の機械で、冷凍
した2本のシリンダーの間にチョコレートを通過させる、その瞬時の間にセンターチョコレートを成
形するのだという。

早速日本に常駐しているミクロベルクの技術者と会った。話を聞けば聞くほど良くできた機械であっ
た。いかに安く、いかに大量に製造できるかを考えぬいた機械装置(Eriksen Roller lines)あった。せ
っかく有頂天になるほどの成果をあげたホップチョコではあったが、明治製菓の安価な商品と戦うわ
けにはいかない。正直に来社した技術者に心のうちを話した。ミクロベルクには多種多様の製菓機械
があるから機会をみつけて工場見学に来いと誘ってくれた。

アンダーセン(Andersen)とは3年ぶりの再会であった。2日間を彼と親密に過ごした。オリムピア
製菓の規模を知っているので、コペンハーゲンで同じような規模のミケルセン(Michelsen)という
工場に連れて行ってくれた。ミクロベルク製のテンパリング・マシン、大、小2基のエンロバーが稼
働中であった。二次加工のチョコレート専門工場であった。アンダーセンはいう、チョコレート原料
は優秀な原料メーカーに自社の顧客にあわせた仕様で発注するのが得策であると。ミケルセンは月、
1000万円の生産高であるにもかかわらず消費電力は20馬力に過ぎない。(私は帰国後、彼の配
合による原料チョコを日本チョコレート工業協同組合に発注した。)

彼が2年間滞在した日本での生活は、オーストリアのホルスト・ミュラーの日本観よりも辛辣であっ
た。アンダーセンがブルーワーカーであったことも関係していると思われるが、大企業に勤めている
高学歴の日本人が時として失礼な態度(impolite)をみせること、公道で投石されたこと、国鉄や地
下鉄の中でひじ鉄を食ったことなどを聞かされ悲しくなった。いかに日本が経済的に発展しても国際
人としてのマナーを身につけるには100年以上かかるのではないかという彼の言葉に暗澹たる気持
ちになった。

彼もホルスト・ミュラーと同じく大学を出ているわけではない。義務教育を終えて工業専門学校へ
進み4年間、学校の指定するいろいろな工場で基礎的なマシーンハンドリングを修業した。9月から
12月までは週3日、夜間、2時間、学校で理論を学ぶ。出席率は極めて厳しく3日以上休むことは
許されない。4年後に労働組合(trade union)が実施する試験に合格すれば職人として認められる。
4年間の教育費を各事業所が負担するかわりに給料はポケットマネー程度であると。ヨーロッパの職
人教育はどこも似たり寄ったりである。労働組合、職人組合が職人の検定を行うのは中世から近世に
かけてのギルドの影響か。

アンダーセンは会社が彼の人品のよさを認め、日本、アメリカ、その他の国々へエンジニアリング・セールスとして派遣されてきた。彼はいう、”I’m still learning.”、と still に力を入れる。
彼はデンマーク語、英語、ドイツ語、スペイン語を操る。日本人が英語一辺倒で韓国語や中国語に熱を入れな
いことを不思議がった。最後に、「しめたこれは素晴らしいアイディア」と思っても世界のどこかで
同じようなアイディアは実用化されているか、さらには、すでに高性能の機械が存在しているかも知
れないと言った。私は頭から冷水を浴びせられた気持ちであった。独創商品、Only one! を求めるに
はまだまだ青二才であることを自認させられた。

「ホップチョコ」の二の舞を演じないためには、新製品を世に問うときはヨーロッパに存在する菓子
機械の専門商社、中古機械の専門商社と意見の交換をするようすすめられた。イリス商会などはドイ
ツ人が日本で起業した会社であるから、古今の情報の宝庫だ。なによりもヒューマンリソースが違う、
と。ビュラーのアマン、ミクロベルクのアンダーセン、イリス商会のハーダーと多くのプロフェッシ
ョナルに知己を得た。その後も長く交流は続く。日本の商社の人々とは、現地で世話になったがその
場かぎりで再会を果たした人はいない。日本は個人として交わらない。なによりも仕事に忙しく余裕
がない。残念なことである。

再びハンブルグへ戻ってイリス商会のハーダー氏の案内で多くの工場を見てまわった。彼は軽い身障
者であったが、心の優しい人でウマが合った。最初に彼の運転でリュネブルグ(Lueneburg)の
シュルックヴェルダー(Schluckwerder)の工場に行くとき、正直なところ彼のハンドルさばきが怖
かった。彼の手はハンドルを握られない。すぐに私の不安を読み取って「駐車するときは手を借りる
よ」といってウインクした。工場見学のあと、昼食をとるためレストランのパーキングで代わってく
れと彼は自動車から降りた。私がぎりぎりのスペースにバックで駐車させたところ、彼は天才だと驚
いてみせた。

リュネブルグはエルベ河から近い。河の向こうはポーランド、チェコである。鉄のカーテンだ。3本
の大きなパイプが見えた。何かと尋ねた。ハンブルグの昼間の電力を補うため、夜間、電力が余って
いるときパイプの上にある貯水池に水をくみ上げ、昼間に放出してタービンを回して発電しているの
だという。いかにもドイツらしい発想である。そのエルベ河の河川敷はローマ時代のローマ街道(Roman roads)だという。

2000年も前の石畳の道路をフォルクスワーゲンがガタゴト走る。40キロのスピードで走る。ロ
ーマ時代の道が実用に耐えている。西欧の歴史を実感する。車窓の景色はローマの兵士が戦車で走っ
ていたころと変わらないのではないか。ハーダー氏は音楽にも造詣が深く、セバスチャン・バッハの
「マタイ受難曲」で話が盛りあがった。私は男声合唱をやっていたというと彼は混声だったので「ミ
サ曲ロ短調」のカール・リヒターの指揮が最高だといってレコードの話になった。
チョコレートと違う話題で彼は喜んだ。遠回りになるがザクセンヴァルド(Sachsenwald)を見せよ
うと車を迂回させた。ビスマルクとその妻の葬られている教会のような墓、ビスマルクに纏わる歴史
博物館をざっと見学。話は、ビスマルクの孫がスウェーデンのプリンセスと結婚してこの森の中のキ
ャッスルに住んでいる、とつづく。時速80キロのスピードで30分以上も話しあっている間中、こ
の森の外周道路は延々と続いている。巨大な森である。

デュッセルドルフのホフガルテン(Hofgarten)の規模にも驚いたが、ザクセンヴァルドはそれ以上
で比較にならない。日曜日に多くの市民が集まっているその目の前に野ウサギやリスが走りまわり、
野鳥が飛び交い、水にたわむれている様子に、ドイツ人と自然との交流がごく日常的に行われている
ことを知って羨望を深くした。

ヨーロッパの菓子の文化、歴史、教育制度を学んだ1ヶ月であった。チョコレートが、日本の茶道と
和菓子のような、「菓子文化」になるのは何時のことかと旅行中幾度も自問した。「菓子は女、子供
のおやつ」と侮蔑的な表現を憎む。日本のチョコレート業界は、ほんとうに美味でウソのないチョコ
レートを作ろうという心構えがあるのだろうか。初めての海外旅行で多くの若くて有能な、経営者、
職人、技師、編集者、新聞記者、ホテルマン、デザイナー、教育者たちと交流して、国際的な競争の
の中での思考や視点に啓発された。日本のチョコレート業界に感じた私の違和感が心の中で本格的に
蠢動しはじめた。

                                     <この項おわり>

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