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経営の岐路(2)

投稿日: 2008年8月18日

経営の岐路(2)

1966年4月。話は前後するが、ミラノのサンタンブロージュで飲んだエスプレッソの味が忘れ
られず高価なエスプレッソ・マシーンを輸入、阪急百貨店と大阪駅とのあいだの「新梅田食堂街」
に、超高級なカウンターをつくって「オリムピアエスプレッソコーヒーショップ」を開店させた。
クルヴォアジェで習ってきたガナッシュチョコも併売した。ところが、さっぱり売れない。業界の
重鎮、モロゾフ製菓の社長、葛野友太郎はこの店を見るなり「これは何じゃ、掃きだめに鶴ではな
いか」と私のバカさかげんに仰天された。(それまで息子の行動を苦々しく見ていた父は半年を経
ずこの店を「お好み焼き」店に改装して父の個人的な知人にすべてを任せた。その店は今も繁盛し
ている。)

販売は思うように伸びない。経費を稼ごうと父も焦っていた。1967年2月1日、工場の一角に
売店をつくり、ちょうどバス停の前であったところからバスの切符を売り、切手やタバコも取り扱
った。小売店のうらは昼にはトンカツやサンドイッチをだす喫茶店を、そのとなりに麻雀屋までつ
くった。いま考えても必死にもがいていたことが分かる。

工場の生産性も全く悪い。百貨店かスーパーかのどちらを取るか、路線も決めず多種品目、少量生
産で残業につぐ残業で従業員の不満はつのるうえに、士気もあがらない。そのうち従業員の一人が
合同労組に加入して、そことの団体交渉も始まった。日本民主青年同盟のオルグも従業員に近づい
ていると警察の公安から社員2名の実名を知らされた。1967年2月13日より労使協議会や寮
会を定期的に開き従業員の不満を吸いあげた。この年は従業員対策に明け暮れた一年であった。

1967年、前田製菓に助けをもとめて父が走った。前田製菓も日本チョコレート工業協同組合の
一員である。すぐに仕事をくれた。ホップチョコに似たクラッカーにチョコレートをドラジェする
仕事だった。バルクで納品してパッケージ詰めは前田製菓で行った。製品は「ネズミの糞」と酷評
されたがさすがに前田製菓でロットは 大きくわれわれはひと息ついた。しかし、ありがたかった。

私は青年会議所のメンバーには頼りたくなかったが背に腹はかえられない。関西きっての菓子問屋、
山星屋の社長、小西昌夫に面会を申し込んだ。すぐ会ってくれた。彼も菓子屋の倅だ。オリムピア
製菓の弱みと強みを掴んでいた。彼は会うとすぐ「オリムピアの、ダイエーの売上を山星屋の帳合
いにつけろ」とムシのいいことを言った。私は応じなかった。しかし、ダイエーで売れているトッ
プスリーの商品は山星屋以外には卸さないから、この3点を大量に販売してほしいとこちらもムシ
のいいことを依頼した。12歳も年が違ったがウマがあったのであろう、「とりあえず移動販売、
同行販売で様子をみよう。よけい売れたら取引しよう」と話が決まった。

もう一人のメンバーを頼った。それは神戸屋パンの桐山輝彦専務であった。3月頃から様々なプレ
ゼンテーションを行い、9月26日に契約書にサインするところまで漕ぎつけた。10月4日の神
戸屋パンの見本市にパリッフェを中心に製品を展示した。ウイスキーボンボン、ジンボンボンが評
判良かった。とりあえず東淀川、池田の営業所のエリアに絞って受注した。営業所への一括納入で
あったので配送効率は抜群でありがたかった。

さらに新しい販売ルートをもとめて「リンゴチョコ」を珍味問屋に販売すべく積極的に開拓した。
父が先頭にたって東京、名古屋、大阪と昔からのつきあいのツテに頼った。このルートは菓子問屋
より価格が通った。この「リンゴチョコ」は前にも書いたが、後年オリムピア製菓の柱として貢献
することになる。それは1971年まで待たなければならない。

この年、ダイエーのライバルである灘神戸生協と取引をした。当時も今も一般の流通業界で販売さ
れているチョコレートのほとんどは本物のチョコレートではない。植物性油脂を含むチョコレート
で溢れている。日本チョコレート工業協同組合の原料に対抗できるチョコレートは皆無であった。
味のよさですぐ取引が始まった。販売量はダイエーを凌駕するほどであった。しかし後日、ダイエー
のバイヤーから、ダイエーをとるか灘生協をとるかと恫喝され、泣く泣く灘生協を切った。前代未
聞のことだと灘生協のバイヤーからさんざん未練を言われた。
そんな中、工場の隣のメリヤス工場が売りに出た。建て替えることなく使えるので父はすぐ銀行と
交渉して借入を実行した。ダイエーや灘生協との取引が毎月のように増えるにしたがって工場の拡
張を余儀なくされていた。しかしこの無謀な借入金がさらに経営を圧迫することになった。土地に
金が寝て運転資金が慢性的に不足した。経営は経費がかさみすぎ赤字になっていた。長年経営を見
てきた公認会計士はこのままでは非常事態がおきますよ、と父に警鐘を鳴らした。

1967年10月26日、20年来の公認会計士、津田良夫は債務超過になる前に廃業することを
父に強くすすめた。しかし父は頑として彼の廃業案に抵抗した。私はその翌日、ダイエーの社長、
中内功に手紙を書いて窮状を訴えた。すぐに中内社長より呼び出しがあった。「とうてい私は忙し
くて面倒を見ることができない。かわりに中内力(功の弟)の神戸商科大学(現在の兵庫県立大学)
での教授、栗田真造に全てをはなしてあるのですぐ相談に行け」と、温情ある言葉に感謝した。栗田
先生は神戸商科大学の経営学部の教授で敬虔なプロテスタントであり、温厚な学者であった。
会社はまさしく火の車だった。そんななか、栗田先生との演習が始まった。

<つづく>

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