Blog

最初の仕事は日本チョコレートの整理

投稿日: 2008年9月23日

最初の仕事は日本チョコレートの整理

日本チョコレートの本社は西武線の桜台にあった。毎週のように上京して五反田にあるダイエーの
東京本社(TOC)へ通った。日曜日は日本青年会議所の青少年教育委員会に出席した。毎週、木、
金、土は東京、日曜日が移動日、月、火、水は大阪という生活パターンは現在も続いている。
青少年教育委員会の20名の委員には何故か全国の有名菓子屋が集まっていた。委員長は伊勢JC
から赤福の浜田益嗣、神戸JCから神戸風月堂の下村光治、名古屋JCから両口屋是清の大島清、
東京JCからフランセの高井和明、大垣JCから柿羊羹のつちやの槌谷裕樹、弘前JCからラグノオの
佐々木周平、多治見JCから鵜飼やっこ飴本舗の鵜飼弘次と多士済々。1972年にはこれら
メンバーが発起人となって日本青年会議所菓子部会を6月20日に結成した。チャーター
メンバーは119名であった。私は広報委員長として会報誌「メルヘン」の創刊号と2号を発行
した。初代部会長は浜田益嗣。二代目の部会長、下村光治は私に代わって父が再興したオリムピア
製菓の面倒をみてくれた。人の出会いとは不思議なものである(後述)。

1970年は私の人生の大きな節目であった。大阪万博の「お祭り広場」の舞台を日本青年会議所
が参加・管理することになり、大阪青年会議所に大きな負担がかかった。私は日本青年会議所の青
少年委員会とお祭り広場をかけ持って多くの日曜日をJC活動に寄与した。

1973年4月、大阪青年会議所、青少年委員会から声がかかってマニラで行われた世界会議(Asia
Conference)に出席した。1970年世界青年会議所の会頭は初の日本青年会議所の前田博であ
った。マニラの世界会議には日本から多数の参加者をだして会議を盛りあげた。アジア・コンファ
レンスでの青少年教育委員会のセッションの議長は香港JCからの劉委員であった。ロバート議事法
にしたがって委員会をまとめ上げる手腕と達者な語学力に敬意を表した。

さて、本題にもどそう。オリムピア製菓の口座を日本チョコレートに移行することは口で言うほど
簡単ではなかった。日本の協同組合事業は、アドバルーンは高く上がっていてもいざ実行の段階に
なると萎んでしまうことが多いので、相手が必要以上に警戒して、おいそれと口座移行は実現でき
なかった。その中にあってダイエー大阪本社は最初に口座移転が行われた。それは越智琢一部長の
即断であった。東京本社の口座移行は1年以上かかった。東京のダイエーへの大手卸問屋の抵抗が
強く口座問題は難航した。大阪と東京の商売の違い、問屋を外して直接取引への頑強な抵抗が大き
かった。

日本チョコレートは翌年、累積赤字が大きく、何も仕入れてもらえない出資者たちから整理した方
がいいとの大合唱がおきた。組合理事長である葛野友太郎は90%の減資、営業担当であり、この
プロジェクトの立案者であった専務の解任を行い、爾後はこの組合事業を継続する意志のあるもの
に経営を任せるという荒療治をした。新社長にファースト製菓の巴温次郎が就任、専務は空席とし、
新しい出資者は38社から日本チョコレート工業協同組合、ファースト製菓、有楽製菓、平塚製菓、
東京産業、レーマン製菓、フランス屋製菓、寺沢製菓の1組合7社なった。(3年目には有楽製菓、
レーマン製菓が抜け日本チョコレート工業協同組合までもが部外者になり2回目の整理が行われた。)
私は取締役営業部長の職名で一切をとり仕切ることになった。

しかし名刺の肩書きは日本チョコレート大阪営業所長。二年後、使用人役員、いまの言葉では執行
役員である。この職位を20年間まじめに勤めた。いつクビになってもいいと思って仕事に取り組
んだ。しかし日本の組合事業の運営は大変難しいものだと改めて知った。組合員であり、日本チョ
コレートの株主でもある会社から日本チョコレートを辞めてうちに来ないかと強烈な誘いが3社も
あったことだ。

このような組合を、リーダーシップを発揮しながら治めていけるのは葛野友太郎のような人物でな
ければできない。その人がゴーサインを出した日本チョコレート工業協同組合の組合事業がスーパ
ーマーケットという小売業に「直接販売」という経験したことのないことに踏みこんでいく。組合
員それぞれが利害関係をめぐっていがみ合いや主導権を握るための権謀術数が始まる。組合にとっ
てこれは大きなお荷物となっていく。組合の実体とは何か。私はその深みにはまらないよう8人の
社長たちと距離をおいた。

日本チョコレート工業協同組合は典型的なムラ社会で、せっかく新興のスーパーマーケットへ共同
販売をしようと組合の総会で決議したにもかかわらず、2年足らずで減資、整理、再スタートとは
情けなかった。株式会社の経営は株主の自己責任のうえに成り立つ。ムラ社会の思考から脱却でき
ず、いたずらに仲良しグループで根回しに時間を費やす。公開された討論の場を避け体制派のしり
馬に乗る。利益も損失もシェアするという意識がまるでない。自分の判断基準を持たないままに長
老の号令をまつ。衆議を決していないので決定した結論に陰で文句をいう。

組合員同志が疑心暗鬼で互いを信頼しないし尊敬もしない。「長いものには巻かれろ」で肝心な問
題を納得いくまで徹底的に問題解決のための論議を尽くさない。協同加工をしている原料チョコレ
ートを買わない組合員がいてもだれも異議を唱えない。組合員、個々が、議決権1個を持っている
にもかかわらずそれを正当に行使しない。チョコレート原料を製造している会社がなぜ組合員であ
るのか。競争相手ではないか。組合の販売価格が市場相場よりも高いときには他社より買い、安い
と前年の何倍もの量を買う組合員がいる。

オリムピア製菓が好調であった頃、組合からの購入量が800トン以上(偽和チョコレートの購入
はゼロ)あった。組合員38社の中で5位以内であった。組合員は好奇の目で見ていた。尋ねられ
るとダイエーに販売しているからだときまって答えた。ダイエーでそんな高いチョコレートが売
れるはずがないという。このように事実を直視しない態度も普通であった。(組合の原料チョコに
MD(ミルクデラックス)があった。この原料で製造した40グラムのノーブランド板チョコはロ
ッテのガーナチョコレートと肩を並べる商品であった。また、エクストラエクストラチョコの割チ
ョコはバレンタイン期間の限定商品であったが単品で1億円以上売れた。ダイエーのヴァレンタ
イン商品ではダントツであった。「良い商品をどんどん安く」を地でいった。詳細については後述
する。)

多くの友人に中小企業等協同組合の実体を聞いた。するとどこの協同組合も大同小異であることが
分かった。組合の1員にならないと情報収集もままならない、と。ムラ八分を避けるためか。どの
組合も規模が大きいところは透明性に欠けるきらいがあること、自由闊達な議論のないシャンシャ
ン総会が多いこと、責任の所在が曖昧であること、国際性にかけること、等々が分かった。
日本のチョコレートを偽和から開放しようとドンキホーテよろしく乗りこんだ組合事業であった
が実体が分かると、辞表を懐に自分が正しいと信ずる道を進んだ。そのために大きな摩擦を呼んだ。
社長たちの思うようにならないことを知るとあからさまに邪魔をしたり、意地悪をしたり、日本チ
ョコレートの帳合いを嫌がり直接取引をしたりした。そのような収拾のつかない時、力になってく
れたのは葛野御大その人だった。いつも強面で、議論好きで、その舌鋒はめっぽう強かった。しか
し正論は通った。通すには彼の尋問調の質問に的確に返答しなければならなかった。彼が納得した
ときはきまって高笑いをしながらOKをだした。

1993年にベルジャンチョコレートヨーロッパがベルギーの協同組合、ヴェランコに加入したと
きに彼我の差を強く感じた。日本のムラ社会、タテ社会とは異なりヴェランコの組合員は利益の共
有をめざす共同体そのものであった。組合の経費も利益も均等割であった。ヴェランコの経営は単
純明快であった。(後述)

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP