Blog

ダイエーのPB誕生(1)

投稿日: 2008年11月24日

ダイエーのPB誕生(1)

このブログを書くにあたって中内力著『選択』(2004年8月30日第1刷、神戸新聞総合出版センタ
ー発行)を読み返した。私が中内力に初めて会ったのは1964年3月9日深更であった。ダイエーが
買収した一徳小岩店の開店のための改装をしている時のことであった。何か分からないが兄弟が口
角泡を飛ばして言いあっている。これが中内力に会った最初で最後であった。翌3月10日、ダイエ
ーは悲願の東京進出を果した。私は出店応援のため前々日から上京して待機していたが改装作業が
遅れ、どうしても14日の夕方になるらしいことが分かった。大学時代の級友に応援をたのみ集合
してもらったが夕方5時に店に行ってもまだ左官が入っている始末だ。これはどうやら徹夜になる
と思い銀座の泰明小学校の隣でラーメンをすすりがら麻雀をして時間をつぶした。

繰りかえすようだが、中内力に会ったのはこれが最初の終わりであった。しかし考えてみると彼の
母校である神戸商科大学の栗田真造教授をオリムピア製菓に紹介してくれたのは、兄の中内功では
なく中内力であったかもしれない。1969年1月に中内力はダイエーを退社している。栗田真造教授
にお世話になったのは1967年から1968年であった。中内功社長、中内力専務の間には埋めがたい
意見の対立や確執があったにもかかわらず一介の取引先に過ぎなかったオリムピア製菓の立てな お
しに配慮してくれたことは僥倖であったとしか思えない。

話をもとにもどそう。小岩店の開店に間にあわすべく商品搬入を始めたのはすでに朝日が昇ってか
らのことであった。ダイエーの開店はいつもこのような状態であった。この後、中目黒店、吾嬬店、
浦和店が次々に改装開店した。大阪から毎週、定時訪問するには経費がかかりすぎるため慶応義塾
大学生をアルバイトとして雇用した。1969年にダイエーのレインボー作戦の1号店、原町田店が開
店するまで先輩から後輩へとつないで2人の慶大生の世話になった。1964年4月に庄内店が鳴り物入りでオープンした。日本初の大型ショッピングセンターといわれ福徳相互銀行と専門店が出店した。このときオリムピア製菓は阪急百貨店から退店させられたことは前に書いた。 ダイエーはめざましい勢いで出店を続けた。1968年には日本初の駐車場も完備した本格的な郊外型ショッピングセンター香里店と茨木店を同時に開店して話題をまいた。全国の小売業の関係者が香里店を見学するためバスを仕立てて訪れた。翌年ダイエーの本部がオリムピア製菓の目と鼻のさきの中津に西宮から引っ越してきた。地の利とはよく言ったものだ。電話で呼び出しがかかれば5分後には商談席に座ることができた。距離が近くなると知らなくても良いことまで耳に入るようになった。功社長と力専務が仲違いをした。それは経営方針の違いだけではなくイデオロギーも違
っていた。毎朝配られる社長メモに「豚は太らせてから食え」とあったとか、数々の中内語録が耳に入ってきた。新興企業故の悩み、それは人材不足。早く人材を育てようとの焦りがあった。

私がオリムピア製菓を整理した頃、多くの友人から忠告をうけた。何故、スーっと出てパーっと消
えるようなスーパーとつき合うのだ。いつ潰れるか分からない新興のスーパーのために日本チョコ
レートにまで入って苦労するのか、と。その頃ダイエーは神奈川のサンコーと業務提携を結びサン
コーのバイヤーが中津の本部に着任していた。彼等も将来に不安を感じていたのだろう、ダイエー
と古くからつき合いのあった私と意見交換をしたがった。彼等から、社長と専務の路線の違いは垂
直統合路線を主張する社長に専務が反対しているらしいとの噂まで聞くことができた。この1点だ
けでなくあらゆる面で意見の衝突が起きていたらしい。もし中内兄弟がこの時点でうまく折り合い
をつけていたら今日のような惨めな結果になっていなかったのではないか、と思うと残念でならな
い。

また話がとんだ。私がアメリカから戻るとすぐダイエーから呼びだされた。来月から6アイテムの
PB(プライベートブランド)を販売したいので協力を頼む、と言う。中内社長の言語録に「走り
ながら考えろ」と言うのがある。まさにこの言葉通りの依頼の仕方である。PBとはそんなに簡単
なものではない。フィージビリティ・スタディーもなしで1ヶ月以内に納入せよというのは余りに
も無謀である。しかしこちらが抵抗すれば、仕入れ先はお宅だけではない、と取引中止を匂わされる。

5月にバカ売れしたピーチョコを売りたいというのだ。もともとピーナッツとチョコレートとは相
性の良い組合せで1個食べるとあとを引いてやめられない。ピーチョコのヒットは以前から販売し
ていた平塚製菓の円盤チョコのお陰だ。これはピーナッツとチョコをミックスして円盤形に成型し
て、セロハンで個包装したものだ。30gで18円売価のものだった。当時流通菓子のチョコレー
トはグラム1円(1キロ、1000円)が小売価格の相場であった。安定した売上で全店採用の商
品であった。ピーナッツチョコレートはマル準チョコレートながら 200g で118円売価が定番
価格。特売価格は98円であった。グラムあたり49銭と半値だった。クリーム玉チョコレートは
300グラム、98円(グラムあたり33銭)と価格の安いことを全面に打ちだした。ダイエーの
PBはどこよりも安く売ることが至上命令であった。

ピーナッツマル準チョコレート(ロリエット製菓)  200g 118円

アーモンドミックスチョコレート(ファースト製菓) 180g 118円

レーズンチョコレート(ファースト製菓)      160g  98円

テーブルチョコレート(平塚製菓)         200g  98円

クリーム玉チョコレート(平塚製菓)        300g  98円

麦チョコレート(レーマン製菓)          180g  98円

以上6アイテムが最初のPBであった。メーカーの定番商品をそのまま包装袋だけをかえただけの
PBであった。袋の右肩にナビスコをまねた三角の赤いロゴを入れることだけが決まっている以外
は、商標すら決まっていなかった。やむなくオリムピア製菓が持っていた商標の「ゴールデンタイ
ムズ(Golden Times)」を無償で貸与すことにした。6点のPBは日本チョコレート工業協同組合
のメンバーの魅力ある商品でまとめた。メンバーそれぞれの印刷業者に圧力をかけダイエー初のPB
商品が発売期日までに全店に納入できるよう袋・カートンケースの印刷をさせた。それは1971年

9月のことであった。
このようにダイエーのPBについては最初から拙速主義で始まった。米国のシアーズ、ニーマン・
マーカス、英国のマーク・アンド・スペンサーのバイヤーは担当する商品について1冊や2冊の本
が書けるほど専門的知識や消費者のニーズを知り尽くしているという。ひるがえってわが国は文系
のバイヤーが圧倒的に多い。事務処理能力には長けているが、PB食品を開発することについては
ほとんど素人同然である。特にダイエーではめまぐるしく人事異動が行われ専門知識を習得する前
に次の部署につく。私の知るかぎりでは、当時神戸大学の農学部で専門に食品を学んだバイヤーは
一人しかいなかった。彼の父がいかりスーパーに勤めていた関係で彼は高校時代からそこでアルバ
イトをしていた。クレームで困ったときは彼に相談をした。

1972年当時、ダイエーにはPBの発注先メーカーへの立ち入り検査のためのチェックリストも
完備していなかった。標準原価計算の概念もなかった。なによりも発注ロット、発注品に対するマ
ニュアルも仕様書もなかった。ダイエーが原価計算書を提出せよと渡された原価計算書のフォーム
は一昔前のものであった。当時はソニーの戦略会計、ダイレクトコストの考え方が一世を風靡して
いた。私は田辺製薬の子会社である保健産業の下請けをしたときの品質管理のチェックリストや、
日本チョコレートの第一次内閣の辻専務から伝授された標準原価計算書等をバイヤーに見せた。
われわれはこれに基づいて見積書を提出すると言ってダイエーの了承をとった。

<つづく>

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP