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ダイエーのPB誕生(6)

投稿日: 2008年12月28日

ダイエーのPB誕生(6)  
これより先、1970年、ダイエーが業務提携した横浜のサンコーから2人のバイヤーが赴任
してきた。一人は大学時代に応援団長だった体育会出身の好青年、もう一人は青山学院卒の江
戸っ子でダイエープロパーの社員とははっきりと違った生意気な青年であった。流通菓子のビ
スケットと一線を画す美味なクッキーをパッケージにいれてPBをつくると言うのだ。ダイエ
ーのようなマスマーケットに対してビスケットではなく上物のクッキーを供給するところがあるのか。 
私も30代で生意気だった。バイヤーが心に描いているような上等のクッキーを大量につくっ
てダイエーブランドで納入してくれるところはありません、と即座に断った。すると日本チョ
コレートは日本チョコレート工業協同組合の子会社だろう。会社の会長はモロゾフ製菓の社長
だろう。それに彼は日本チョコレート工業協同組合の理事長ではないか。モロゾフ製菓に良い製品があるではないか。私としては組合の中は必ずしも一枚岩ではないと内情を明らかにすることはできなかった。分かりましたと渋々引き受けたが、内心、彼がこのような商品を開発しようとているのであれば正直いってダイエーのPBでは売れないと思った。 
当時クッキーと言えば泉屋のクッキーがトップブランドであった。百貨店の名店街では花形商
品であった。しかし自家消費の売上はほとんどなく90パーセントは進物であった。モロゾフ
製菓のアルカディアというマカロンも百貨店の進物需要で大量に売れていた。泉屋にしろモロ
ゾフにしろ百貨店メーカーとして旗幟を鮮明にしていたからこそ店内でもよく売れる一等場所を確保できたのである。ダイエーの販売量はとてもロットに乗らない。ましてやパッケージものでは戦えない。 
モロゾフの社長は日本チョコレートの象徴的な会長である。クッキーを製造している組合員は
モロゾフ以外にも多数いたが百貨店を拠点として製造しているメーカーばかりだった、とはバ
イヤーに言えない。そこでやむなく日本チョコレートの社長に相談をした。ファースト製菓の
社長、巴温次郎である。すでにダイエーのPBを2点供給している。バタークッキーをバンド
オーブンで焼く設備を持っている。抜き型も多種類持っていた。売れるか、売れないか分から
ない商品ですが、とおそるおそる切り出してみた。すると彼は、これだけチョコレートを売っ
てもらっているのに断るわけにいかないだろうと、いとも簡単に引き受けた。 
1972年9月、何とかPBキャプテンクックのクッキー8種類ができあがった。しかし危惧
したとおり商品は売れなかった。ピーナッツチョコのように瓢簞から駒はでなかった。「アソ
ート12」にしろクッキーにしろ企画だおれで失敗であったことは明らかであった。しかしこ
れらの失敗から彼等は多くを学び、本社機能が東京都港区の芝パークビル(HOC)に移転した
1982年、1階の売場ではスーパーのレジの外側に高級イメージのメーカーをガラスケース
に陳列して対面販売を始めた。これがマスプロ、マスマーケットに挑戦した日本のスーパーマ
ーケットの限界であった。キャプテンクックのクッキーは一敗地にまみれたが1980年代、円高になったとき百貨店で
ギフトとして高額価格で販売されていたデンマーククッキーがダイエー輸入部によって大量に輸入された。売価は半額以下になった。ギフト商品がコモディティ化した最初の商品の一つであった。ギフトという送り主の気持ちを先様に伝える機能は失われてしまったのである。それがコモディティ化、つまり何の個性も特色もなくなる商品になったということである。
 1975年6月にコンビニエンスストア、ローソン1号店が桜塚(豊中市)にオープンした。
このオープンについても十分なフィージビリティスタディを疎かにしていた。この大プロジェ
クトの執行責任者がコンビニとは如何なるものかを理解していなかった。オープンの数日前に
中内社長の視察があり完全なやり直しを命じられプロジェクトは商品部に移管されてしまった。越智部長から急遽呼び出しがあり、東京一徳出店と同じ轍を踏んだ。連日徹夜に次ぐ徹夜で開店に漕ぎつけた。 
アメリカのローソンは自社ブランドの牛乳を土台に生活必需品を集めて店舗をつくった。毎日
牛乳を買いに来る顧客の利便を図ったところから生まれた小売の業態であった。日本のローソ
ンにはデイリーの土台となる牛乳はなかった。店のコンセプトができていなかった。ローソン
ブランドのチョコレートの開発を越智部長に直訴しても相手にされなかった。 コンビニで「おでん」を売り、「弁当」を売って販売の柱を確立したのは開店から数年経ってからである。自社ブランド、すなわち、PBがナショナルブランド(NB)を超えることは至難の業で日本では弁当という商品が定着したが、それはNBの弁当が存在しなかったからとも言える。中国では冷たい弁当に人気がない。弁当は日本で売れるほど中国では売れずに日本のコンビニは苦戦を強いられているようだ。
 <つづく>

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