Blog

2回目の会社整理

投稿日: 2009年1月18日

2回目の会社整理         

これを知った東京産業もまた同じように日本チョコレートを辞めて来いという。東京産業に第
二営業部をつくっておまえをその営業部長にしてやろう、と。私にとっては迷惑な話である。
このような馬鹿げた話をダイエーにもっていけるわけはない。とりあえずダイエーにはロリエ
ット製菓はヨックモックブランドのシガールが忙しいのでチョコレートのラインをしばらく止
めることになった、ついては東京産業に切りかえると伝え、供給者変更の手続きをとった。
12月のどさくさに紛れて悪事を働くような気持ちであった。
話を戻そう。この東京産業のごり押し商法に有楽製菓が反発したことは書いた。麦チョコの供
給者であったレーマン製菓も東京産業のやり方に抵抗した。日本チョコレートの株主は相互に
自らの権益を守るために互いに反目しあって組織はバラバラになった。事態の推移を静観して
いた日本チョコレート工業協同組合の理事長は日本チョコレートを組合の組織から切り離すこ
とを決断した。

ピーナッツチョコレートの帳合い変更の裏話はまだつづく。1971年からダイエーの商品部
には丸紅飯田から2名の出向社員が在席していた。東京産業はヨヒンビン入りの怪しげなチョ
コレートを製造し、丸紅飯田がその販売代理店であった。そもそもの両社のなれそめはチョコ
レートプラントの輸入がきっかけだったと思われる。出向社員のひとりは東京産業と関わりが
あった。ピーナッツチョコレートの販売量の大きさを東京産業の耳元で囁いたのかも知れない。
いずれにせよ東京産業はこの出向社員を十分に利用して、今村バイヤーに根回しをしていた。
おかげで売上げナンバーワンのピーチョコの供給元を変更するのに汗をかくことはなかった。
以上のような経過を経て1973年4月30日、またもや会社の組織変更を行った。ロリエッ
ト製菓とレーマン製菓が日本チョコレートの株主からおりた。代わって、新たに東京産業、寺
沢製菓が加入することになった。社長は井上重夫からファースト製菓の巴温次郎に替わった。
日本チョコレート工業協同組合の葛野理事長は日本チョコレートに対して向後、一切の債務保
証はしないと宣告した。組合からの貸付金も直ちに返却するようにと要求し、資金を引きあげ
た。銀行からの借入金の保証も外された。たちまち資金繰りに支障をきたした。株主からの購
入代金の支払いは3ヶ月の手形で決済することになった。銀行借入の保証は誰も引きうけない
ので苦労した。それまでの取引銀行は三菱銀行であったが無断で大和銀行に切りかえ無担保、
無保証でとの条件で折衝した。

後日、このことについて日本チョコレートの役員会で私の独断専行を咎められたが、無担保、
無保証という条件では積極的な懲罰動議は出そうにも出せなかった。このころ大和銀行は東京
へ進出したばかりで「やまとぎんこう」とヨミを間違えられるほどのローカル銀行であった。
オリムピア時代、大和銀行天六支店にはお世話になりました、と練馬支店の支店長に挨拶する
不思議にウマがあったのか破格の条件で取引が始まった。すなわち、無担保、無保証の条件の
引き換えに三菱銀行をやめて大和銀行、一行取引にすること。日本チョコレートの一行取引は
このときに始まり今でもその関係は続いている。

ロリエット製菓とレーマン製菓が株主をおり、新たに東京産業と寺沢製菓が入れ代わった。有
楽製菓もまもなく株主から去った。フランス屋製菓はそのまま居のこった。
ダイエーへの供給商品と株主の関係は次の通りとなった。

アーモンドミックスチョコレート (ファースト製菓)

レーズンチョコレート (ファースト製菓)      

テーブルチョコレート (平塚製菓)         

クリーム玉チョコレート (平塚製菓)        

ピーナッツマル準チョコレート (東京産業 ← ロリエット製菓)  

麦チョコレート (寺沢製菓 ← レーマン製菓)         

日本チョコレート工業協同組合と縁切れになって組織も変わった。ファースト製菓から1名、
東京産業から2名の出向社員が日本チョコレート東京営業所に送り込まれてきた。それまでは
オリムピア製菓で働いていた気心の知れた仲間集団から非同族会社の組織に転換していくこと
になった。経理については東京産業から送りこまれた課長が仕切ることになり、今まで見えて
いたカネの流れが見えなくなった。毎年、ピーナッツチョコレートのために赤字がでてうんざ
りした。ロリエット製菓のものを販売していれば当然黒字決算ができるものが赤字になり、そ
の後も以来ずっと赤字決算をつづけることになる。
日本チョコレートが日本チョコレート工業協同組合と縁が切れたことは組合内部の問題として
取り扱うことになっていた。しかしレーマン製菓が麦チョコの商標はレーマン製菓の商標登録
「Mugie」に抵触するすることを理由に商標変更要求をダイエーに内容証明書で直接送り
つけたことで内紛が白日のもとにさらされた。さらにダイエーのクリスマス専売商品は、モロ
ゾフ製菓のチョコレートクリスマスカードの意匠登録に触れると日本チョコレートあてに内容
証明書が送りつけられてきた。

ダイエーの仕事をやるということは従来の曖昧な業界秩序を破壊するということである。レー
マン製菓の「Mugie」は「麦」とは違うので法廷で争うとダイエーの法務部が返事をした。
モロゾフ製菓に対しては営業担当の課長と話しあって次年度の販売は中止するが今年は黙認し
てほしいと頼みこんだ。この課長は阪神淡路大震災の後、モロゾフの社長になるような人物で
あったのであうんの呼吸が合った。その後も様々な問題が起きたがその都度大きな問題になる
ようなことはなかった。

ダイエーの取引では如何なる無理を要求されても「オールOK」で対処するようにと社員に習
慣づけた。それに対する株主の反発は時に鉄拳を食らうほどの怒りであった。鉄拳を見舞われ
たことは2回あった。一回はダイエーの今村バイヤーの面前で起きた。彼は「こらえなさい」
と耳元で囁いた。「うちの中内も同じですよ」と言って慰めてくれた。人間の強欲むき出しの
狭間で空しさを感じた。このころから高田好胤唱えるところの薬師寺建立のための写経に出か
けるようになった。写経は今も続けている。どうしようもない憤りを静めるには薬師寺に行き
写経をすることであった。

日本チョコレート工業協同組合の組合事業を軌道に乗せるためと自分に言い聞かせて籍を置い
た会社が自分の意志と逆の方向へ向かうことになった。不条理の中に身をおいて1987年ま
での15年間、苦界を彷徨した。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP