投稿日: 2009年2月1日
オリムピア製菓とリンゴチョコ
実弟の正蔵は同志社大学の文学部歴史学科を1968年に卒業した。
ちょうど私が日本チョコレートに出向するところであったので父がオリムピア製菓に入社させようとしたが私は反対した。弟にはレストランをやったらどうかとすすめた。六甲山の中腹に夏期だけ営業して残る半年は世界中を旅して翌シーズンの仕込みを考えるオーナーシェフ、という夢のような話をした。(現在ではエル・ブジが同じ考えで経営している。)弟は土井勝料理学校の講師として就職した。その後、私が親しく通っていたレストランフックへ移った。オーナーシェフの岩田弘三は進取の気鋭に富む調理人であった。その希有な経営感覚はとても料理人という概念から遠い人でモロゾフ製菓の経営するブオナパスタやアンリシャルバンティエとともにグルメショップ、ロックフィールドを開いた。現在総菜業界では知らぬものはないRF1の前身である。 当時次男である実弟の嘉信がフランスにいたので正蔵はフランスで修業したいと言いだしフックの岩田社長の慰留を振り切って1973年5月にレストランフックを辞めた。今考えると本当に大きな岩田社長との出会いを自ら潰したのではないかと残念に思う。正蔵は辞めるとすぐフランスにわたりアリアンセフランセーゼに通ってフランス語を習うことから始めた。
1973年9月28日、私の誕生日を祝いたいと母が言うので実家に行った。
神戸風月堂から次々入る注文に気をよくしていると思っていた父に久しぶりに会った。
しかしそのとき父の異常な痩せかたをみて驚いた。
(昔から胃腸が弱くビオフェルミンと健胃固腸丸を愛用していたことは前に書いた。)
父に聞くと、ずっとビオフェルミンと健胃固腸丸を飲んでいるが下痢が止まらないと言う。
とっさにこの痩せ方は尋常ではないと感じすぐ翌日父のお気に入り内科医と相談した。
彼はその場で大阪府立成人病センターに紹介状を書いてくれた。 検査の結果は直腸癌。かなり進行しているので手術の成功率は50パーセントであると告げられ、手術を受けるか受けないかの即断を迫られた。
50パーセントあるなら手術するのが当然だと思い父に相談することなく手術をすることに決め手続きをとった。父は手術を怖がった。
なだめすかして1月26日に入院することを納得させた。紹介状の甲斐あって高名な神崎五郎博士の執刀で2月7日手術を受けた。術後経過は良好で4月退院。 誰も父に癌であることは告知していなかったが自分の病は癌であると自ら悟ったのか、在仏中の正蔵に料理の修業をやめさせてチョコレートを習いにいかせろと言いだした。そこで私は1965年にスタージュ(無報酬で実地見習い)したクルボアジェに手紙を書いた。次男嘉信はモーまで出向いて正蔵にチョコレートの製造技術を伝授してくれるよう乞うた。幸い二つ返事で引きうけてくれエンロバーの扱い方を学ぶことができた。
クルボアジェは親切にも彼の仲間に依頼してデポジッターの操作を正蔵が学べるよう配慮してくれた。チョコレートの修得期間はわずか半年で1974年5月に帰国した。
正蔵は7月にオリムピア製菓の専務となった。まったく突然自分の人生の道が変わり彼は恐る恐る新しい道を歩き始めた。すると幸運にも正蔵の前に、否、オリムピア製菓の前に文字通りの救世主が現れた。それは神戸元町通りの神戸一番舘の社長、先代の川瀬俶男であった。 フランスから帰国した正蔵は、レストランフック時代の馴染客である神戸一番舘の川瀬社長から声をかけられた。「ぼんぼん、帰ってきてチョコレート屋をするのやったら買うたろか。リンゴのチョコレートをうちのブランドにしてくれたら買うたる」と誘ってくれた。川瀬俶男は眼鏡、時計、宝石専門店の二代目社長であるが、食通の彼は2階に「あじさい」という喫茶店、3階に「世界のチョコレート」とうたって世界各国の輸入チョコレートを販売していた。話を聞いてみると、輸入商社が引いたチョコレートが在庫になると、一括してその在庫処分品を現金で仕入れて小売りすることを永年してきて、結構、商売としては儲かっていた。しかし自分の商品でないので面白くない。そこで、その当時、もてはやされていた工場を持たない自社製品、「プライベートブランド(PB)でやりたいのや」とのことであった。 当時、私は量販店のPBを専門に供給していたので、この話にのれば父も正蔵も存外うまく喰っていけるかもしれないと思い、それまで販売していた株式会社日本チョコレートのルートを切って、チョコレート業界に一切関係のなかった弟のために一肌脱いで自分の製品を譲った。
(リンゴチョコに関しては2004年10月9日のブログに詳述したので参照していただきたい。) 川瀬俶男は青年時代、天津にまで甘栗の焼き方を習いに行ったほど研究熱心であった。
リンゴチョコに対してもネーミングにこだわった。アップルハネーチョコレートは彼の語感にあわず
フランス語のブランド名でポムダムール(愛のリンゴ)となった。商品名が決まるとパッケージに凝った。大日本印刷を呼び何案ものモックアップをつくらせた。川瀬俶男は私の父と同い年であったが出自が違った。彼はまぎれもないモボであった。色彩に対する感性は同時代的であった。最終デザインを誇らしそうに見せた。見てびっくりした。何とサイケデリックなカードボードのパッケージと洒落たブリキ缶ではないか。デザインだけではなかった。彼はオリムピア製菓からバルク買いをした。計量もパッケージ詰めもすべて自社で行った。このひたむきな商品に対する愛着心をみて私は彼を尊敬した。 尊敬したことは他に2点ある。
その1。ロットごとに見本を保存したこと。
その2。試食見本を自前で大量に配ったこと。
彼は熱心なライオンズクラブのメンバーであったので可能な限り各地にでかけ積極的にメイキャップを行った。その手には必ずポムダムールを携えていた。神戸市長の応接テーブルにはぜひポムダムールをと寄贈しつづけた。自分の商品に惚れこみ製造に、販売に、広報に打ちこむひたむきさに頭がさがった。
川瀬俶男には息子がいたがなぜか父とは同居していなかった。われわれ兄弟は息子のように可愛がられた。クレームがでると必ず兄弟が呼ばれ長時間説教をされた。弟はそれをいやがったが私はいやではなかった。彼のいうことは正しかった。なによりも商品を愛するが故に発せられるこごとであった。自分の息子を叱る口調であった。 ポムダムールは商標登録ができなかった。特許庁はポムダムールには普通名詞のトマトの意味
があるので商標登録を拒絶した。私がポムダムールに関係していた間、私は密かに「愛のリンゴポムダムール」のもとに商標登録をして一番舘の商標を守った。2001年1月オリムピア製菓の全株式を正蔵の嫁に譲った。父と弟が死去してオリムピア製菓の経営は守りが甘くなり類似品のリンゴチョコが出回るようになった。競争相手はベルギーの原料チョコレートを使用して競争を挑んでいる。私の生涯で30年以上もつづいた長寿商品であったので気がかりで仕方がない。
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