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V革(V字改革)のあと(3)

投稿日: 2009年3月8日

V革(V字改革)のあと(3)            

直輸入でデンマーククッキーの成功事例がでると次から次へと直輸入が始まった。不二家が輸入代理権を持っていたハーシーチョコレートを大量に並行輸入したとき、輸入した問屋が資金繰りに支障をきたした。突然その商品をすべて日本チョコレートに振替えてくれと言ってきた。やむなく引取ることにして商品を検品したところ全品に青カビが発生しているではないか。輸入品専門のダイエー御用達問屋の倉庫はお粗末極まりない冷房設備であった。チョコレートを保管するには18℃の低温倉庫が必要で湿度も50パーセント以下でなければならない。ところがそこには家庭用のクーラーが取りつけられ庫内温度は25℃で除湿機はなかった。 なぜこんな事態がおきるのか。ダイエーには立派な輸入部が存在していることは前に書いた。

この部門を通せば事故は絶対に起きない。この部門を動かすには商品部長の決裁をうけた稟議書が必要である。稟議書なしで「便利屋」の輸入品の専門問屋を動かしたのだ。輸入品の専門問屋であっても輸入経験やチョコレートの保管についてはほとんど何も知らない。彼らにしてもやりたくなかったであろう。しかし取引に影響すると恫喝されれば輸入せざるを得なかった。輸入するには金がいる。結局この問屋は、ダイエーのてこ入れもあって何年かは持ちこたえたが倒産してしまった。

青カビの生えた商品は産業廃棄物として焼却代金を払って処分した。 V革の裏で起きたつじつま合わせの同様な事件は日本チョコレートを含めて「便利屋」として取引していた業者間で闇から闇に葬られていった。その始末費用は成功して得た利益よりも大きかったのではないか。そのためB計というリベート要求がますます強まったのではないか。どうしてダイエーはかくも変質していったのか。中内功自ら三宮ダイエーの近くの粗末な部屋で仕入れをしていた時の興奮はどこへ行ったのか。このような状況を中内社長に直訴したいと何度思ったことか。しかし出来なかった。自信がなかった。自浄作用を待つだけだと自分で結論づけた。 「よい商品をどんどん安く」を実現すべく「われわれの青春の血と、涙と、汗で購ったダイエーの仕事」であるから私にはどうしても譲れない一線があった。「便利屋」で終わりたくないという意地もあったが自分が追い求めている「よい商品」を売りたかった。よい原料、正しい製造方法と製造工程によって作られた真性なチョコレートを良心的な価格で販売することこそ、中内功が言う流通革命ではなかったのか。少なくとも私にはその確信があった。長時間労働、低賃金で社員一同は正直に働いてきた。そこに不条理な踏み絵をさせられ、法外な条件をつけられたりする。

このままダイエーと取引することは自らの首を絞めかねない。私はダイエーとの取引の見直しを密かに決心した。1983年、株式会社エバーリッチを設立、1985年、株式会社インフォジャパンを設立、同年、株式会社アール・エス・コロニーを設立しダイエーに対して目くらましを図った。エバーリッチはダイエーのオリジナル専門、アール・エス・コロニーはニチリュウのオリジナル専門、インフォジャパンは当世流行のITであった。 1981年にソードが発売したパソコンを自腹で購入した。ベーシックを学ばなくてもPIPSという簡易言語で文系を卒業した私でもすぐに活用できた。漠然とではあるがダイエーの依存度が高くなればなるほどダイエーの無理を受け入れなくてはならないというジレンマから脱出したかった。さらに神戸風月堂が西神にチョコレートの工場を建設したことでオリムピア製菓も安泰ではなくなってきた。自己啓発をはかるためと仕事の飛躍をはかるためPCの習得に時間をさいた。1985年には大学の同級生と前述の株式会社インフォジャパンを設立した。文系のオジサンをどのようにPCに馴染ませるか、を主眼にコンサルタント活動を始めた。しかし当時であってもITは分進秒歩の変化の毎日であった。その早さについて行けずあえなく3年で解散した。しかしその3年間で得た知識は大きく後々役立った。

ダイエーの本部が吹田の江坂から浜松町の通称、軍艦ビルに引っ越しHOC(浜松町オフィスセンター)と称した。日本チョコレートはすぐさまHOCから歩いて150メートルのところに、1DKのアパートを借り東京営業所とした。私は木、金、土をそこで過ごし、月、火、水は大阪営業所で仕事をする二重生活を始めた(1984年9月1日)。奇しくも後のモロゾフの社長となる石原建男が1階上の階に住んでいた。1社への売上は1割以下に抑える。単品で10億以上の売上はつくらない。モロゾフの葛野社長の方針だ。当然このことは日本チョコレートにも当てはまる。ピーナッツチョコレートの売上は20パーセントを越えていた。 自分の感性はダイエーの商売を厳しく批判していたが現実にはダイエーの売上なしでは経営はたちいかない。感性と理性はいつも相反する行動をとらせる。HOCの隣にアパートを借りれば何かと便利だ。新製品開発の場としても活用できる。この現実的な提案は東京産業の専務から提案された。費用の面からもホテル住まいより節約でき、自炊生活で健康管理にも都合がよかった。

V革が始まって河島博を中心とする経営中枢の考え方と商品部の受け止め方に大きな乖離があったと考える。商品部の暴走とも思える踏み絵事件を苦々しく感じていたのは私だけでもあるまい。
私はダイエー以外の得意先開拓に踏み切ることにした。ダイエーと正面きって競争している量販
店は避けることにした。1978年、ヤマザキナビスコのクリスマス・ブーツのOEMを請ける
ことにした。浜松以西は日本チョコレートが受けもった。売上は1億円以上あったがリスクが大
きく利益は出なかった。誰もやりたがらない仕事だったから簡単にとれたのかもしれない。

翌年の1979年、今田美奈子の三越の今田美奈子サロンの紅茶を請けた。当時の三越の社長、
岡田茂は、これからはモノを売るのではなく、コトや文化を売るのだと言って今田美奈子もその
片棒を担いだ。私はムジカの堀江敏樹社長から紅茶のA~Zを学び今田美奈子ブランドの紅茶を
作った。後に岡田天皇の失脚で2000万円以上の在庫をかかえ今田美奈子とともに在庫処分に
苦労したが、岡田茂の後始末担当係が三越にでき大きな損害はまぬがれた。

<つづく>

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