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ピエロの嘆き(1)

投稿日: 2009年3月22日

ピエロの嘆き(1)

いくら中抜きをされても日本チョコレートのダイエーに対する売上はそれほど落ちなかった。
理由はダイエー専門の“便利屋”問屋(神港商会)の倒産によってダイエー側も御用達問屋に注意深く目配りをするようになったからだ。しかしそれは裏を返すとその時々の都合にあわせた商品供給の請負を強いられることであった。本来はチョコレートを扱う口座であるにもかかわらず夏場の閑散期にはチューブ飲料(プラスチックチューブに入ったジュースを冷蔵庫で冷やしたり凍らせる飲料)の帳合が日本チョコレートにつけられたり、神港商会の帳合であったシンガポールから輸入したトキャンデーが日本チョコレートについたりしていた。また、中内社長の関係筋から納入される様々な商品の帳合がつけられた。なかには中内社長の名前を騙った詐欺まがいの紅茶の業者(ウエスコ)や色仕掛けのバレンタイン専門の企画会社(マーランド)もあった。このように御用達問屋の売上は常にBEP(損益分岐点)を保つよう操作された。そこには納入業者側の自主性はなかった。考えようによっては極めて楽な商売であると言える。しかし奴隷のような卑屈な精神に陥る。ダイエーは片岡に(1959年入社)、ダイエー以外の得意先は古参の古川(1957年入社)にまかせ私は新しい仕事を探していくことにした。 日本橋三越本店は私が大学時代に初めて売場に立ち仕事を学んだところであった。

ダイエーが今田美奈子の菓子教室を三宮にあった大阪ガスの教室で始めたのは1978年のことであった。私はダイエーの依頼でこのプロジェクトマネージャーとしてすべてをとり仕切ることになった。今田美奈子の名前で生徒を募ったところ多くの生徒が集まった。その中には東京の「今田美奈子お菓子教室」に毎週通っている人たちもいた。いわば先生のシンパである。したがってダイエーの教室としては手抜きできなかった。 今田美奈子は当時菓子教室の業界ではちょっとした有名人であった。原宿に「薔薇の館」という洒落た煉瓦建てのビルで大勢のスタッフを抱えていた。菓子教室のほかにテーブルセッティング、フラワーアレンジメントの教室も経営していた。テレビにも度々出演していた。三越の岡田社長と昵懇のなかと噂されていた。彼女はフランス・ブロアに三越のすすめでシャトー(城)を購入したばかりか内装までをすべてロンドン三越に任せて改装した。日本橋三越新館を「モノ」以外の文化でフロアーを埋めるにあたって今田美奈子に相談があったらしい。三越の旅行部が先生の生徒を集め「フランスのお城」でお菓子とテーブルセッティングを学ぶツアーを手際よく企画していた。 先生は三越から依頼された様々な案件をどうしたものかと思案していたころダイエーのプロジェクトを通じてタイミングよく私と知りあったまでである。先生は私にしきりと相談を持ちかけてきた。私は先生の里が大金持ちであることを知って、巧妙に仕組んだうさんくさい企画であるように思えた。先生が物販をすれば先生の経歴に疵がつくと思った。この企画は断った方がよいと何度も進言した。

しかし彼女が思案していたころ三越側ではすでにシナリオのほとんどは決まっていたいたようだ。
結局は、先生が迷っているあいだに「今田美奈子お菓子サロン」の売場はどんどんと実行に移されていった。「文化」を売るといっても実際には「モノ」を売らなければならない。先生には百貨店で販売するモノは全く持っていなかった。先生の妹がティーサロンと生菓子をうけもった。
そこで出す紅茶とその紅茶の進物セットのプロジェクトを先生は私に任せた。ここからは先に述べたような悪い経過をたどった。1979年スタート、三越事件の1982年までの僅か3年であったが、今田美奈子も名誉と財産を失った。代償はあまりにも大きかった。日本チョコレートが持っていた在庫(2000万円)は岡田社長の後始末担当が面倒をみた。高校時代の同級生が広島店の部長であったが、後始末担当ができたから相談に行けと教えてくれた。このような情報を得られなかった取引業者は多くいたのではないか。

私は1年の歳月を費やして紅茶をティーハウス「ムジカ」で学んだ。ムジカの社長、堀江敏樹を通じてセイロンの市場で極上のウバを仕入れた。堀江社長は熱い人で一所懸命に教えてくれた。彼の店、ムジカでモーツアルトを聴きながらポットで出される紅茶を楽しんだ人は数多くいる。紅茶とはこんなにもすばらしいものかと人に感動を与えることを生き甲斐としている。堀江社長は三越が文化を売るというフレーズに感じ入りこのプロジェクトに入れ込んでくれたのであった。それが開店して幾ばくも立たないうちに閉店させられて私も社長も落胆した。 岡田事件後、今田美奈子は三越旅行部の企画を焼き直して近畿日本ツーリストと組んで自前の「第一回ロゼール城フィニッシングスクール」(1ere Session Savoir-Vire du Chateau de la Roselle)を開催した。期間は1992年5月9日~5月29日の21日間、場所はロゼール城。

第2回目は8月8日~8月28日の期間。ロゼール城に15泊、校外小旅行はローヌ地方のワイ
ン工場、ホテル学校、チーズ、パン工場の見学研修とリオンでのグルメ体験(2泊3日)、パリ
のホテルリッツに2泊の豪勢な研修旅行である。その旅行代金はなんと200万円(往復ビジネ
スクラス)。研修終了時に「ロゼール城サヴォア・ヴィヴル」ライセンスと「フランス生活芸術
協会」から生活芸術家資格を取得できる。受講者は15名であった。2回とも発表と同時に締め
切られた。

ロアール地方にある今田先生のお城と聞いただけで参加した熱心な今田美奈子ファンがいたことは確かである。 私は第1回の旅行に何日か参加させてもらったが、果たしてこれがほんとうの文化だろうかと疑念をもった。三越の岡田社長が目指していた文化とはどのようなものだったのだろうか。文化、文化と軽々しく言ってほしくない。岡田社長自らが企画、監督しなければ心ある三越の顧客に販売できるほんものの文化などできる訳はない。岡田社長はそれにふさわしい文化を伝えられる人物だったのであろうか。
  <つづく>

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