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ピエロの嘆き(3)

投稿日: 2009年4月5日

ピエロの嘆き(3)

ノイハウスも準備に3年かけて1989年11月に開店、翌年の1月10日でお払い箱になった。ノイハウスの場合は最初から仕組まれていたようだ。3年かけてまずまずの店舗ができた。青山墓地に面しているキラー通りに洒落た路面店で立地もまずまずだった。この立地は日本青年会議所の会頭もつとめる虎屋の社長、黒川光博の助言によるものであった。青山一帯をくまなく自分の足で歩いて探した。テントをかけた工事現場があると自社ビルなのか貸しビルなのかを聞いた。これは私の父、嘉蔵のやり方であった。運良くおあつらえ向きの物件に巡りあった。業者はケン・コーポレーションと聞き即座に契約を結んだ。 当時私は日本チョコレートの今でいう「名ばかり管理職の取締役」だった。自力で店舗を作ろうにも資金がない。
そこでダイエーの子会社である日本流通リースへ相談に行った。店舗をリースで作ろうという魂胆であった。社長の新田聰は豪放磊落な人物で私と意気投合した。

ダイエーからくる案件とは全く「毛色が違う」話を気に入ったようだった。その違いが面白いからやりましょうと快諾した。多分19歳からダイエーの前身であるサカエ薬品と取引していたことが人物評価で点を稼いだのかも知れない。あるいは新田社長の下にいた部長、須田滋(前職がダイエー商品部の加工食品バイヤー)が事前に私の良い情報を入れていたのかも知れない。とにかくこれで店舗の建設は後顧の憂いがなくなった。

資本金はノイハウスと折半で1000万円ずつの2000万円。店舗の敷金や什器備品で資本金はすぐ底をつく。次は運転資金を何とかしなくてはならない。ノイハウス本社から日本の代表取締役として派遣されてきたダニエル・アーノルドがベルギーのクレディットバンクがノイハウスなら無担保、無保証で借入が可能かもしれないと耳寄りな話を持ってきた。早速クレディットバンクの東京駐在員に会った。私は8年間赤字であるという経営予測のプレゼンテーションを行った。店の立地は繁華街を選ばない。百貨店の出店は行わない。その理由は日本にはニーマン・マーカスに匹敵するような百貨店は存在しないからと説明。ゴディバより高級で上等であるノイハウスブランドが定着するまでは青山の1店舗で頑張ると、極めてネガティブなプレゼンテーションを行った。 ベルギーでのノイハウスの令名の故か借入に成功した。当時クレディットバンクは審査業務だけで貸付窓口は三井銀行であった。三井銀行では海外の銀行から2000万円の借入金を無担保、無保証で借りた私に興味があったらしく三井銀行本店営業部第八部、次長、加藤豊久が直接私に面談してあれこれ質問した。日本では飛びきり良い菓子を珍菓と言いますが、当節は神戸の珍菓モロゾフは全国の百貨店にあり、珍菓ではなくなりました。1店舗主義で頑張れば5年でBEPをクリアするかも知れませんが8年とオーバーな話をしてきました、と説明した。

彼はその年の歳暮に政財界のお歴々100名以上に1万円するノイハウスチョコレートのギフトを配ってくれた。 ノイハウスは1848年創業の老舗であるが明確なCIが確立していなかった。ロゴばかりでなくトレードマークもコーポレートカラーも統一されていなかった。ミッションステートメントもなかった。私は日ごろからダイエーのオリジナル商品のデザインを依頼していた若者に国際的に通用する水準の高いものをつくらせた。結局そのときのCIがノイハウスの本社で採用され統一化された。若かりし頃のアートスタジオ・ノイスの足達豊の制作だった。 店舗はユーハイムやモロゾフの百貨店のショップ・イン・ショップを一手に請けていた牧浦建築デザインの牧浦胖が精魂こめてつくった。トラバーチンを使ったチョコレートの陳列ケースは微妙な温度管理のできる特製品。エスプレッソマシーンでだしたコーヒーをジノーリのカップで供した。パブリシティはベルギー大使館の広報部が積極的に動いた。マガジンハウス、マリークレール、ヴァンサンカン、クラッシーは極めて好意的な記事を掲載した。それも予想を遙かに超えるスペースを割いてくれた。

開店の日は親日家で能楽師であるベルギー大使、パトリック・ノートン夫妻がテープカットをした。多くの招待客が来て午前中店はごったがえした。午後3時すぎ、ちょうど客が引いた頃合いを見計らったようにチサングループの総帥、竹井博友の一行が息子と月刊「致知」の編集長を従えジャガーに乗って店に乗りこんできた。ダニエル・アーノルドが「タケイさん、タケイさん」とおどおどしながら接待につとめだした。 ノイズの社長の元同僚があの目は何かを狙っている怪しい目つきだ、注意しなければと、私に注意した。この男の嗅覚は大したもので、それから3ヶ月も経たないうちにノイハウスジャパンは竹井博友に乗っ取られてしまうのだ。後で分かったことだがノイハウスの親会社、RTホールディングのパリ支店はチサングループのモンタボーホテル(4 rue de Mont-Thabor)の近所であった。ノイハウスが立ちあがったら日本ノイハウスが乗っ取ってしまうシナリオがパリでできていたのであった。私はただの立ちあげ屋に過ぎなかった。「井戸掘り屋」の悲哀を嫌というほど味わったが後にベルギーで仕事を始めるきっかけになった。すべて人間万事塞翁が馬である。

ノイハウスの親会社がティーネンシュガー(ベルギーの精糖会社)からRTホールディングに代わって事情が一変したとダニエル・アーノルドが釈明した。一店舗主義から多店舗展開に本社の計画が変化し日本、アメリカ、香港に事務所を設けると言う。グローバル展開しているゴディバに追いつけ追い越せという政策になった、と。日本ノイハウスはチサンからキッコーマンに経営が移ったが経営が立ちゆかず一旦日本から完全撤退した。竹井博友が巨額脱税で実刑がを食らったときアーノルドから再度私とやらないかと打診されたが断った。そのご再び上野風月堂と組み日本に再上陸した。

<つづく>

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