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東京産業の経営危機(1)

投稿日: 2009年7月26日

東京産業の経営危機(1)   

日本チョコレートの主要な商品供給者は東京産業であることは先にも書いた。最初あれほど売れたダイエーのPB、マル準ピーナッツチョコレートは発売から10年経ったころから年々、販売量が減っていった。東京産業の社長、冨永正雄はマル準ピーナッツチョコレートが売れている間は経営も順調であったのでご機嫌であった。この商品は日本チョコレートを通じて互いに競合するダイエーグループと日本流通産業グループにPBとして納入されていた。

もともと東京産業は原料メーカーであった。系列商社は丸紅飯田。丸紅飯田の仲介でイタリアのカルレ・エ・モンタナーリのプラントを入れライスチョコレートを、ついでマル準ピーナッツチョコレートを製造し流通菓子市場へ進出した。催淫作用があると言われたヨヒンビン入りのチョコレートを販売していたことは先にも書いた。このライスチョコレートはチョコレートさえしっかりしていれば世界商品として販売できるものだ。ココアケーキと植物性油脂で作ったマル準チョコレートでは美味しくない。ピーナッツチョコレートはピーナッツの味と香りで食べさせることが可能である。ライスチョコレートの主原料は米のポン菓子である。米のポンははっきりした味も匂いもない。それ故チョコレートが美味くなければならない。現にドイツのメーカー、ワーウィー(Wawi)は中国の廈門に工場を造って世界を相手に商売をしている。東京産業は機械の持ち腐れであった。

東京産業の冨永社長は典型的な我がままぼんぼんで社員に何か問題があれば報告しろ、と厳しく言うが、問題がなければ本当に何も心配しない気楽な性格であった。創業者の冨永正太郎は息子の放埒な性格を常々案じていたが甘やかすにまかせていた。ミス千葉であった女性を娶り、その実弟、野村信義に東京産業の経営を任せ自分はゴルフに明け暮れた。糖尿病を患っていたがこれ位ならいいだろうと毎日酒を呑んでいた。

専務もまた同じような性格であった。肝心なことは報告せず自分の都合で経営をきりもりしていた。一言で言えば放漫経営。明治製菓、ロッテ、森永製菓、不二家、江崎グリコがヨーロッパの近代的な製造プラントを入れたころ一次加工(カカオビーンズからクーベルチュールを作る)の段階と市場商品を製造した後商品に付加価値をつける包装ラインが整ってなかった。もともと野村専務の実家は立派な製氷会社、三共製氷冷蔵の御曹司であった。彼には帰るところがあった。東京産業の仕事は片手間であった。会社の労働組合との軋轢が破局につながっていった。

ヤマザキナビスコは日本では通年商品たりえないチョコレート製造に見切りをつけ、リッツやオレオ等のビスケット販売に注力することになった。そこでチョコレート製造に関連する機械設備を、ナガサキヤ、東京産業、フルタ製菓等に売りさばいた。東京産業はサパールの板チョコ包装機や垂直式のエンロバー(ドラジェを製造するプラント)を買い取った。そしてそれらの機械で製造する製品をヤマザキナビスコに納入するようになっていたらしい。しかしこの下請けも最初は言葉通りであったが次第に下降線をたどり1980年代にはゼロになったことは確かである。

日本チョコレートはヤマザキナビスコのクリスマス・ブーツのアッセンブルを請け負っていたので東京産業としてももっと上手な営業活動の方法があったのではないか。流通菓子のロットは業界でも最右翼である。ワーウィーのようなライスチョコを開発できなかったのであろうか。ワーウィーが「ショコ・ライス」を始めたのは1982年からで東京産業より後発である。ワーウィーの製品は一般うけのする普通の商品である。チョコレートはミルクチョコでマル準チョコレートでないというだけのことである。マル準チョコレートが日本のチョコレートを駄目にしたといっても過言ではない。

1965年から1985年までの20年間は途中で石油危機をはさみダイエーもV革があったりしたが概ね成長路線をたどった。しかし消費者の購買志向はボリュームから品質へ変化していった。なかでもピーナッツチョコレートの販売量は激減していった。1970年の万博の前と後で量から質への変化が明確であった。消費の二極化が顕著になっていく。1980年にはピーナッツチョコレートはキャプテンクックからセービングになり価格訴求を鮮明にしたが販売の総量は漸減していく。

ダイエーのPBで味覚糖のバターボールを真似たとき、同様の手口で名糖産業のアルファベットチョコレートも真似商品を作った。名糖産業も味覚糖と同じように日本チョコレートに対してダイエーのPBを中止するよう内容証明便で警告してきた。私は何はともあれ名糖産業を訪問して社長の石田文雄に会った。日本チョコレートの一存で製造を中止することはできないことを丁寧に説明した。そのときの態度が先方によい印象を与えたのか分からないが後年、名糖産業とは親密な取引ができ、その関係は現在に至っても続いている。

そのときの真似商品は東京産業で作ったものでPB商品のネーミングはアニマルZと決まった。ピーナッツチョコレートと並んでトップテンの1、2位を争ったがこの2点の売上を合算しても往年のピーナッツチョコレート1点の売上に満たなかった。日本チョコレートはダイエーだけでは食っていけなくなっていた。

同じように驚異的に売れ行きを伸ばしていった味覚糖のピアピアも毎年アソートする部材を入れ換えて消費者の目先を変えることに狂奔していた。うまくアソート品目に残ることができれば納入業者は安堵するがさもないと何百トンもの売上がゼロになる。生き残るためには味覚糖の値引きに応じざるをえなくなる。売上は確保されたが利益がでない。ピアピアの部材は国内製品からオランダやドイツの海外製品に変えられていく。生き残りをかけた熾烈な競争が際限もなく広がっていく。日本の少量多品種生産品目はたいていの場合海外製品に価格で負ける。生産ロットが違う。輸入税率がチョコレートの場合10パーセントである。単品あたり20トンを越える量があればほとんどの国産製品は価格で負ける。海外調達を示唆した私の提案はそのまま味覚糖が輸入を青和商会に実行させ、われわれは傍観者としてほぞを噛んだ。

味覚糖は東京産業に日本チョコレートの帳合を外し、直接取引を迫ったが東京産業にもお家の事情があった。日本チョコレートの販売量だけでは東京産業の経営がもたない。私が江崎グリコと取引していることを知った野村専務は何とか江崎グリコに食い込みたいと泣きついてきている。その手前味覚糖とは直接取引はできない。日本チョコレートにとっても事情は同じである。直接取引をされると日本チョコレートの経営ももたない。野村信義はこの弱みをついてくる。江崎グリコには日本チョコレート工業協同組合の芥川製菓が早くから下請けをしているので東京産業としても直接江崎グリコに営業攻勢をかけにくい。そこで私の協力が必要なのであった。

江崎グリコのクリスマス・ブーツ加工プロジェクトは担当部長、千布清のお蔭で順調に伸びていた。江崎勝久社長とは1975年以来、日本青年会議所菓子部会を通じて昵懇の仲であったがビジネスの話は一切しなかった。それで今回も野村信義の依頼、直接江崎社長を紹介しろという厚顔な要求を無視することにした。かわりに正面突破を考えた。商品企画部の井上部長と会って東京産業の窮状を正直に訴えた。あえて日本チョコレートの帳合は通さないこと。直取引を強調することによって取引を成功させようと考えた。結果は狙い通りにことは運んだ。

運良く江崎グリコに手持ちの製品化企画があった。東京産業の設備で直ちに製品化することのできるものだった。それは「アーモンド棒e」というプロジェクトであった。6ヶ月という短時間で製品化ができた。しかし両社たがいの利益がからんでできあがった製品は消費者にとって魅力の乏しいものであった。案の定売上は期待通りには上がらなかった。1シーズンかぎりで終売となった。勿体ない話である。もう少し東京産業が量目をつけ魅力的な製品にすれば、商品企画がよかっただけに売れたであろうと思った。私はこの製品化の作業には一切タッチしなかったので残念であった。棒チョコはよく売れる商品である。通常は四角い棒チョコであるがこの商品は円筒形であった。デザインも洒落たものであった。

江崎グリコの「アーモンド棒e」の売上は東京産業の経理にとって焼け石に水であったに違いない。銀行には江崎グリコに直接口座ができたことを誇らしげに報告したに違いない。

<つづく>

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