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東京産業の経営危機(2)

投稿日: 2009年8月2日

東京産業の経営危機(2)   

噂ほど恐いものはない。東産(東京産業)が倒産するのではないかという噂は最初冗談のように
業界で囁かれていた。それは噂ではなく事実であった。日本チョコレートで働いていた従業員は
東京産業が危ないことを前年からうすうす感じていた。私は1986年4月に今期限りで取締役
を辞任したいと代表取締役会長、葛野友太郎に辞表を提出していた。日本チョコレートの代表取
締役社長はファースト製菓の巴温次郎であったが、体調を崩し入院中の病院でリハビリの最中に
大腿部を骨折した。そのため急遽日本チョコレートの社長を辞任した(1987年11月21日
逝去)。次期社長に平塚製菓の平塚馨が日本チョコレート工業協同組合の理事会で指名された。
平塚馨は用心深い人でもし社長を引きうけるなら自分で納得してからと自社の会計士に
日本チョコレートの監査をさせることを理事会に認めさせた。

東京産業の加工費はトンあたり僅か5万円~8万円という超安値で生産していると言われてい
た。日本チョコレートへはピーナッツチョコレートを業界相場より10%以上高い93円で売り
つけたことは先に書いた。日本チョコレートは90円でダイエーに販売していた。この逆ざや価
格のため日本チョコレートは万年赤字であった。赤字は株主が販売高に応じて割り戻しをして経
営のバランスを保っていた。このような人を食ったような利己的な経営を組合員相手にしていた
のだ。せっかく持ってきた江崎グリコの「アーモンド棒e」も同じような理屈で日本チョコレー
ト同様の高値の加工費を要求したようだった。

東京産業の経営陣は私とダイエーのつきあいや江崎グリコとのつきあいを過大評価して無理を
押しつけてきた。江崎勝久が大阪青年会議所へ入会したのは1973年であった。大阪青年会議
所は所帯こそ大きかったが上場会社の役員は数えるほど少なかった。日本青年会議所菓子部会の
総会を大阪で行うことになったとき、私が裏方をやるからと言って江崎勝久を口説いて実行委員
長になってもらったのは1975年のことだった。

大阪の菓子問屋の雄、山星屋の小西昌夫(私より12歳上の大阪JCいのしし会)の全面協力を
得て、大阪の菓子業界のJCメンバーから1社あたり最低5万円の協賛金を徴収することに成功
した。軍資金が潤沢にあれば総会は成功したも同然である。1976年全国から128名もの多
数の参加者があったのは後にも先にも大阪総会だけである。江崎勝久のネームバリューは大した
ものであった。彼とのつきあいは青年会議所だけにしておきたかった。

ところがビジネスのつきあいをしなければならなくなってきた。それはダイエーのそっくり商品
の開発依頼に、江崎グリコのアーモンドチョコレートとセシルチョコレートが入っていたことか
らで、やむなく江崎勝久副社長と直接コンタクトを持つようになった。コードネームはGA、G
Cとつけられていた。最初依頼があったのは1980年8月だった。しばらくグリコ商品だけは
勘弁してほしいと断っていたが、翌年2月にはどうしても開発しろと強い圧力がかかってきた。

このプロジェクトも売上のほしい東京産業に持っていった。東京産業との価格交渉は難航を極め
たがどうにかダイエーのターゲット価格がクリアできた。江崎グリコだけは名糖産業や味覚糖の
ように黙って発売するわけにはいかない。ダイエーには内緒で事の次第を江崎勝久に伝えること
にした。

1981年3月10日に私は江崎グリコを訪問した。彼は断ってくれと言った。私は断
ることは可能であるが、もし日本チョコレートが断ればこの仕事は岡山のカバヤにいくだろうと
答えた。西友のPBのポッキーチョコレートはカバヤが供給している。ポッキーよりGA、GC
の真似の方がたやすい。私は言った。これは日本チョコレートにやらせてほしい。われわれがや
れば販売数量などの情報を教えることもできるではないか、と。彼との会話に15時から18時
30分まで3時間半も費やした。秘書課の女性社員が度々メモをもって入ってきたが彼は無視し
続けた。昔から顔なじみの秘書課長は私がどんな案件を持ちこんだのかと訝ったに違いない。

話を東京産業に戻そう。東京産業から2名の出向社員が日本チョコレートに派遣されていた。
1名は東京営業所の所長。1名は経理担当。日本チョコレートで起きる出来事はそのまま東京産業
に筒抜けであった。ダイエー、日本流通産業のPB、ピーナッツチョコレート、
アニマルZ、GA、GC。味覚糖のアソート製品。江崎グリコと直取引の「アーモンド棒e」。
日本チョコレートの売上の半分以上にあたる15億円前後の生産を東京産業に集中させた。しかし一旦傾いた経営の立て直しは容易ではない。社長の息子、二人が勤めていた都市銀行と商事会社を辞めて会社に入った。私は二人の息子の指南役を頼まれ社長宅で会った。しかし父親が長年放置していた
放漫経営に大なたをふるって、短期間に荒療治を施せるような青年ではなかった。
これは親子にとって残念なこと だった。東京産業の社員に対する態度が父親ゆずり、で大きく会社の労働組合とうまく交渉ができなかった。

1987年1月10日、平塚製菓の計理士による監査結果が理事会に報告された。それによれば
東京産業は日本チョコレートにおいて融通手形、2億円を発行していることが判明した。平塚馨
は日本チョコレートの社長就任を断った。理事会は今期だけと無理矢理引きうけさせた。このよ
うなゴタゴタがダイエーに漏れると口座を一瞬にして失ってしまう。これは単に東京産業の問題¥
ではない、われわれの問題ではないか。チョコレート屋にとって最も忙しいバレンタインを控え
私たちは正月気分どころではなかった。                   

<つづく>

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