Blog

東京産業の経営危機とダイエー

東京産業の経営危機とダイエー

当時の業務日誌とは別に、東京産業のダイエー対策について作っていた重要なメモが出てきた。
このメモは個人的なもので誰もが読める業務日誌に記載できないものであった。

l 1985年12月:浜本バイヤーの個人的アドバイス。ダイエーのセービングについて大手各社
(江崎グリコを除く)より委託生産の協力申し入れがある。日本チョコレートが日本チョコ
レート工業協同組合メンバー以外からの取引ができない組織上の制約は外すことがベストであると示唆された。 

l 1985年12月:ダイエーが独自にセービングの委託生産が可能であるメーカーを検討している
貴重な調査資料を入手した。それには正栄食品、大一製菓、日幸製菓、シスコ、高岡食品、
名糖産業、有楽製菓、芥川製菓、日新加工、カバヤ食品、日本食材、ユース、フクイ、でん
六、ライラック、チョイス製菓、日本カカオ、松尾製菓、フジ乳業があげられていた。    
[有楽製菓、芥川製菓、日新加工の3社は日本チョコレート工業協同組合のメンバーである]

l 1986年4月10日:東京産業が日本チョコレートを舞台に数億円の手形を操作していることが、
決算監査で突きとめられた。日本チョコレート工業協同組合は東京産業と一線を画すため
日本チョコレート工業協同組合の理事長、葛野友太郎が日本チョコレートの代表取締役会長
の職から降りることを理事会で検討していると専務理事、鳴海延喜からの電連あり。

l 1986年5月19日:日本チョコレート工業協同組合の専務理事他、理事、組合員間で東京産業に
事故あるとき日本チョコレートおよび日本チョコレート工業協同組合が損害を被ることなきよう
対策をたてるべきとの協議あり。鳴海延喜からの電連。

l 1986年10月16日:ダイエーのTシニアマーチャンダイザー、Mマーチャンダイザーに目下把
握している東京産業の経営危機の管理情報を極秘に入れ、その対策を日本チョコレートに一
任してほしいと申し出た。

l 1986年10月19日:日本チョコレート本社にて役員会を開催。1987年3月31日を期して日本チ
ョコレートは日本チョコレート工業協同組合、その組合員株主に関係なく商品の売買ができるよう
業態変更をすることを決定したと、専務理事、鳴海延喜から電連。

l 1986年11月28日:ダイエーのTシニアマーチャンダイザー、Mマーチャンダイザーに日本チ
ョコレートの組織変更、業態変更を伝え新規口座の開設を要請した。組合と縁を切って自由
に仕入を行えるようになるとダイエーにとってもプラスになる。組合員以外ということはグ
ローバルな規模で考えてほしい。ベルギー、フランス、ドイツからアソート・パーツを輸入
してダイエーオリジナルの商品開発が可能になることを強調した。取扱極秘を依頼。

l 1987年1月7日:ダイエー関東地区のAバイヤーに今後の日本チョコレートの業態変更を説明し
て理解を求める。

l 1987年1月9日:ダイエーのTシニアマーチャンダイザーに具体的な進行日程について説明。

l 1987年1月13日:ダイエー中四国地区のMバイヤーに今後の日本チョコレートを説明。

l 1987年1月:東海地区本部、ユニード、近畿地区本部等に説明に回る。

l 1987年2月20日:日本チョコレート工業協同組合と日本チョコレートの合同役員会で1986
年10月19日に検討したシナリオ通りに遂行してもダイエー、日本流通産業他の得意先も理
解が得られそうであることを専務理事、鳴海延喜に電連。

l 1987年2月25日:正栄食品の経営陣と正式に会議をもち、
日本チョコレートのサプライヤーとしての条件等の摺り合わせを行った。

l 1987年2月26日:ダイエーのTシニアマーチャンダイザーに東京産業の後継サプライヤーは
正栄食品にすることを伝えた。商品の切り替えは5月1日から行えるようダイエーの
流通センターの在庫も調整することも伝えた。

l 1987年3月7日:ダイエーのTシニアマーチャンダイザーより口座変更の日程プランを文書で
提出するよう求められた。

l 1987年3月13日:タイムスケジュールを提出。

l 1987年4月17日:日本チョコレート工業協同組合の役員会。日本チョコレートの整理は不可
能である。富永勸に全て任せるので日本チョコレートをこのまま継続することを要請され
る。株式は1株95円で譲渡する。(額面1000円)

l 1987年4月23日:日本チョコレートの臨時株主総会で全役員の辞任。日本チョコレートの株
式全株を富永勸に売却する。

l 1987年5月25日:東京産業は第1回債権者会議。事実上の倒産である。
このメモに書いてないことも多い。正栄食品との接触は1983年頃からナッツ類の仕入を始
めた期にさかのぼる。接触を図りたいために取引を始めたと言っていい。バレンタインの手
作りチョコレートのトッピングに正栄食品のナッツ類を組みあわせた。関西支社長、本多市
郎から梅田新地に招待されるほどの仲になっていた。

1986年10月19日に日本チョコレートは業態変更を決めたと言っても本当はどこまでの決意か
不明である。芥川製菓が日本チョコレート設立の立役者であったから内心では千載一遇のチャン
スと捉えていたかも知れない。味覚糖や江崎グリコの取引についても日本チョコレートの株主で
ありながら全く協力はしてもらえなかった。この決定が本物かどうかを理事長、葛野友太郎に確
かめる必要があった。

<つづく>

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP