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東京産業の経営危機と人間模様

投稿日: 2009年8月23日

東京産業の経営危機と人間模様

私は何の自慢にもならないがそれまでに2回会社を整理した。今回は3回目である。会社整理な
どの経験はしないにこしたことはない。しかしやむなく整理をしなければならなくなったときは
勇気をだして整理する方がよい。破産や夜逃げなど決してするものではない。今回の日本チョコ
レートの整理について詳しく述べよう。

債権者は誰も損をしたくない。お金だけではない。登録商標のような無形資産まで奪い返そうと
する。日本チョコレートという会社をひとに押しつけておきながら商標は返せと言う。私は弁理
士に相談した。弁理士は裁判になってもわれわれには勝算がある。よって返却する必要はない。

後日、この問題は専務理事、鳴海延喜の頭痛の種になった。理事長、葛野友太郎が亡くなり芥川
篤二が次期理事長に選ばれた。その後もこの商標返却要求は続いた。仕方がないのでどうかこの
決着は法に訴えてくださいと文書で回答して決着がついた。

代表取締役会議議事録

昭和62年4月17日午前10時より日本チョコレート工業協同組合に於いて代表取締役会を開催し
た。代表取締役3名他、富永勸、監査役鳴海延喜の5名が出席し、平塚馨が議長となり、下記議
案を付議した。

〔議  案〕 当社経営権の議案の件、及び経営の継続について出席者全員一致をもって次の事
項を近日開催の臨時株主総会に付議することをすることを決議した。

1、出資会社8社の株主はその全株を昭和62年4月30日をもって当社取締役富永勸、富永
正蔵他その指名者に対し、株式額面の10分の1の価格で譲渡する。

2、現在の全役員は同日をもって退任する。ただし昭和61年5月1日~昭和62年4月30日
事業年度の決算について、全役員が連帯でその責任を負うものとする。

3、富永勸は当社の経営権一切を引き継ぎ、債務を連帯保証する。

4、 当社の有する商標「株式会社日本チョコレート」は前同日をもって日本チョコレート工業
協同組合に譲渡し、同組合はこの商標を引き続き当分の間当社に使用させる。

5、富永勸はできる限り早期に当社の新商号及び新商標を決定し、前項により借り受けた商標
を組合に返還する。
以上の決議を明確にするために、ここに議事録を作成した。

昭和62年4月17日
株式会社 日本チョコレート
議長 取締役 平塚馨 [印]

昭和62年2月末より、株式会社日本チョコレートの50%以上の商品供給先であり、
また、株式会社日本チョコレートの代表取締役でもある東京産業株式会社の経営が行き
づまり、そのまま推移すると、株式会社日本チョコレートも共倒れになるおそれがでて
きたため、経営側より、富永勸並びに富永正蔵に肩代わりの要請があった。

慎重審議の結果、両名並びに株式会社日本チョコレート大阪営業所の現役の従業員のう
ち再建の同意者のみで全株式を引き受けることとし、全員同意書に記名捺印し、資金は
とりあえずオリムピア製菓株式会社から300万円を、株式会社日本チョコレートから
268万円を支出して全株購入手続きを終了した。

昭和62年4月28日   再建同意書に記名捺印した者。

富永   勸 [印] 34000株 3230000円

富永 正蔵 [印] 20000株 1900000円

古川 義郎 [印] 2000株 190000円

片岡 幸郎 [印]  2000株 190000円

田村 良一 [印] 1000株 85000円

新井  進 [印] 1000株    85000円

合 計 60000株     5680000円

日本チョコレートは芥川製菓の発意でスタートしたプロジェクトであることは前に書いた。しか
し同社が送りこんだ辻専務は組合員の応援を受けることなく資本金の90パーセントを失って責
任を取るかたちで辞任した。このとき芥川も辻も最後には葛野会長が救ってくれると思っていた
に違いない。しかし辻専務は葛野友太郎の果断な措置によって処断されてしまった。
この処断が後々、芥川製菓と日本チョコレートの間に様々な確執が生まれる原因となった。
プロジェクトが成功するかしないかは立案の段階で誰が、何を、どのように実行して、その目標
とする達成期日が明確でないものはほとんどかけ声だけで終わる。日本チョコレートの社長はフ
ランス屋製菓の井上重夫であったがスーパーの実体については何も知らなかった。

組合メンバーでスーパーの実体を知っていたのはナガサキヤ、オリムピア製菓、芥川製菓、ファ
ースト製菓、平塚製菓、有楽製菓、寺沢製菓、東京産業位なものであった。設立趣意書には組合
員が取引しているスーパーの口座を日本チョコレートに提供して取引を集約しよう。営業社員を
出向させ、組合員同志が競争する愚を避けようではないか、というものであった。オリムピア製
菓が口座も営業社員も組合のためにと差しだした最初のメンバーであった。その思い切りの良さ
に組合員はまごついた。オリムピア製菓については葛野友太郎自身が事前に調査をして絶対な信
頼を富永親子に寄せていた。ために辻専務が辞任に追いこまれたのはオリムピア製菓のためであ
ると陰口を言うものもいた。
さらに業界で異端児とされた東京産業を日本チョコレートに引きこんだのはフランス屋製菓の井
上重夫であった。売上の半分以上を東京産業が占めていたことに組合員は快く思っていなかった。
だから東京産業が危ないという噂が流れたときメンバーは誰一人庇うものはいなかった。江崎グ
リコのグリコ・森永事件が起き業界は大きな影響をうけた。

ダイエーの供給者が東京産業から正栄食品に移ることが明らかになり東京産業の命運は尽きた。
秋までは持つと思われたが、1985年6月22日には自主廃業通知を仕入れ先に送らざるを
得なくなった。つづいて6月25日に債権者会議が開かれた。この間の模様を記事にした6月
29日の「日刊帝国情報」を日本チョコレート工業協同組合の専務理事、鳴海延喜にファック
スしたのは芥川製菓であった。

協同組合の運営は極めて困難なものである。総論賛成、各論反対は常に起きる。事業規模や製
品の違い、得意先の違いで組合員の思惑は異なって当たり前である。芥川製菓としては組合員
の共倒れを防ごうというもっともな建議であった。しかしモロゾフ、ヨックモック、メリーチ
ョコレート、ゴンチャロフ製菓、中村屋のような百貨店を中心に販売をしている大手メーカー
(年商100億円前後)と年商10億円前後の中小メーカーでは経営理念、経営手法が違って
当然である。そのうえ前田製菓のようなクラッカーメーカー、サクマ製菓のようなドロップメ
ーカー、日新化工や東京産業のような原料メーカーの寄合所帯では組合員を束ねるのは並大抵で
はない。ナガサキヤ、チロルの松尾製菓と多士済々である。事務局も一筋縄でいかない40名
以上の社長を相手に様々な委員会や事業を遂行するのは舌筆に尽くしがたい努力が必要である。

[グリコ・森永事件は1984年~1985年に関西を舞台として起きた。

1984年3月18日 江崎グリコの江崎勝久社長が自宅で入浴中に拉致される。

3月19日 犯人は10億円を要求。

      5月10日 毒入り商品の配置予告

      大手スーパー 販売中止

      犯人「かい人21面相」を名乗る

9月12日 犯人グループは森永製菓を強迫、1億円要求

10月7日 京阪神のスーパー5店で青酸入り菓子、12個を発見

      森永製菓の10月の売上、60%減]

<つづく>

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