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「ナショナルブランドとプライベートブランド」(4)

投稿日: 2009年12月29日

「ナショナルブランドとプライベートブランド」(4)       

わが師と仰ぐ葛野友太郎は流行を追わず、ブーム商品を避け、オーセンティックな製品を徹底して追求した。彼が日本チョコレート工業協同組合の理事長に就任して、生産する原料チョコレートは高品質を保った。協同組合としては全国でも珍しく利益をだす協同組合に育て上げた。なに、理事長はモロゾフの一次加工工場としてうまく利用しているだけだと、うだつの上がらない組合員から揶揄されながらも経営の本質を外さない運営をした。彼の経歴については先にも書いたが、資本主義をわがものにした共産主義者であった、という定説は公然の秘密であった。しかし誰もこの秘密については一様に触れようとしなかった。

しかしどうだろうか。協同組合活動(日本チョコレート工業協同組合の原料工場)、協同組合の販売に関する協業化事業(株式会社日本チョコレート)の経営にあたって、彼の口から階級闘争の話を聞いたものはいなかった。プロパガンダらしき言動も一切なかったはずだ。ここに1冊の本がある。

『野坂参三 予審訊問調書―ある政治的人間の闘争と妥協の記録』(井上敏夫著、五月書房、2001)。その中から、少し長くなるが引用する。

五問 家庭ハ

 答 私ハ小野五右衛門ノ三男ニ生マレマシタカ幼少ノ時母ノ姓ヲ継キマシタ、実父母共弐十年前死

   亡シ次兄小野梧弌(当四十弐年)カ生家ヲ継キ東京ニ於イテ商売ヲ営ミ資産不明ナルモ中流ノ

   生活ヲ為シ、長兄友槌(当五十年)ハ葛野姓ヲ継キ神戸ニ材木商ヲ為シ、長姉次姉トモ他ニ嫁

   シ私ハ大正八年葛野作二郎ノ四女龍(当三十四年)ト結婚シマシタ、子供はアリマセヌ

これによると葛野友太郎は野坂参三の甥に当たると言うことである。彼が京都大学時代「滝川事件」に連座していたと巷間言われているが確証は得られていない。京都大学を卒業した秀才であったことは日頃の言動からうかがい知ることが出来る。業界にあっても言いたいことをずばりと言い、理路整然として的を外さなかった。葛野友太郎が亡くなったのは1992年8月5日。9月から週刊文春に野坂参三はソ連のスパイであったという記事が連載され始めた。これにより野坂参三は日本共産党の名誉議長を解任され、除名されてしまった。この記事を見る前に亡くなった葛野友太郎はある意味幸せであったのではなかろうかと、『大正ロマンをチョコレートに包んでーモロゾフ文化を創った「葛野友太郎」の仕事―』(井上優著、オリジン社、1993)に述べている。この本は発刊と同時に松宮隆男(当時、社長)から私あてに贈られてきた。

葛野友太郎はモロゾフの経営者として従業員と経営者の壁を取り払い円滑な組合運動を支援し、日本チョコレート工業協同組合、株式会社日本チョコレートを運営した。彼のリーダーシップと野坂参三の共産党除名問題とは何の関係もないと思うのだが、唯一、彼の思うようにいかなかったのは日本チョコレート工業協同組合の理事長後継者、モロゾフの社長後継者について彼が生前に自分を超えるような人材を育成できなかったことではなかったか。そして彼の死後モロゾフが赤字に転落したことは震災の影響もあるが創業者意識に欠けるサラリーマン意識が災いしたためであろうか。ダイエーの中内功、モロゾフの葛野友太郎という当代きってのカリスマ経営者の後継者は苦労続きである。社長の最も大切な仕事のひとつは次世代のリーダーの育成であると言われているが、それがうまくいかなかったのである。

私は株式会社日本チョコレートの経営会議で彼の謦咳に接するとき、いつも大きな影響を受けた。この時代にあって彼は電卓を使わない。数字をまるめてすべて暗算で素早く計算をする。しかも結論を出すのが早い。まあ、そんなことはどうでもいい。彼の現実の商取引に対する心構えについて話そう。みなによく知られたダイエーの標語は「良い品をどんどん安く」である。彼はこの標語を見て「良い商品を安く売る」のは商人として当たり前のことではないか。なにも感心することはない。問題はこのあたりまえのことが標語になることだ。これは日本チョコレートに私が出向していったときの第一声であった。菓子を安売りすることよりもチョコレートは嗜好品であるから文化をつけて売らなければならん、とプライベートブランドについてはネガティブであった。

私が株式会社日本チョコレートを引き継いだときの株主には日本チョコレート工業協同組合が入っていた。得意先であるダイエー、いずみや、平和堂、忠実屋等のスーパーはモロゾフ、メリーチョコレートの商品をほしがった。しかしゴンチャロフ、コスモポリタン以外は出荷を拒んだ。日本チョコレートとしては食べていかなければならないので得意先からの要請によってモロゾフの商品を結果として次々真似た。その度に内容証明書が来た。即時、「販売を中止せよ」との内容である。そしてモロゾフからその回答を聞くため相当な職位の営業社員が、いつ販売中止できるかを確かめに来た。

得意先の言い分はこうだ。葛野友太郎はモロゾフの代表取締役だろう。日本チョコレート工業協同組合の理事長だろう。そして日本チョコレート工業協同組合も株式会社日本チョコレートの株主だろう。そのうえ葛野友太郎が株式会社日本チョコレートの代表取締役会長だろう。それがどうして類似品をつくったからと言って何の予告もなく内容証明書で「即時、製造中止」を通告してくるのか。もっともな疑問である。

1970年代までは日本チョコレート工業協同組合の百貨店メーカーと称する仲間はまだスーパーとの取引に唯々諾々と応じなかった。1974年に日本流通産業が発足しだした頃からまずゴンチャロフが動いた。ついでモロゾフ。モロゾフが動くとすぐメリーチョコレートがつづいた。ゴンチャロフは日本チョコレートが取扱ったが、モロゾフ、メリーチョコレートはダイレクト取引をした。納入価格はゴンチャロフより5%安い掛率であった。ゴンチャロフは割を食った。

<つづく>

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