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ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (1)

投稿日: 2010年1月24日

ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (1)

「ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行」の話に入る前に、なぜ井上優とモロゾフがイタリアに傾斜していったのかの背景について書いておきたい。1987年1月にモロゾフの広報誌 “SWEETLAND” <中世・愛の小径>特集号が百貨店のモロゾフの店頭にでた。sentieri medioevali dell’amore なる単語を3段に重ね、その下に<中世・愛の小径>を置き、4段になった新しいロゴが表紙にのっている。表紙は二つ折りになっていて、表2はイタリアの地図とウンブリア州の地図になっている。内容は「中世・愛の小径」にふさわしい町々の名前(9都市)、<ウンブリアの祭り>、<ウンブリアの食>、<ウンブリアの手工業>、<ウンブリアの美術>と続く目次を見ただけで思わず引きこまれる。

その9都市とは、

1.テルニ(Terni)

2.スポレート(Spoleto)

3.フォリンニョ(Foligno)

4.スペッロ(Spello)

5.コッレピーノ(Collepino)

6.アシッジ(Assisi)

7.ペルージャ(Perugia)

8.トーディ(Todi)

9.オルヴィエート(Orvieto)

愛の守護神、聖バレンチノと愛の伝説から始まって、テルニが「バレンタイン発祥の地」であると続く。ウンブリア州にある各都市の歴史と地理が魅力的な写真を交えて一気に最後まで読み通させる編集はすばらしい。ウンブリア州はわが国の奈良県と同じく州の周囲に海岸線を持たない州であることが、<中世・愛の小径>の雰囲気を色濃く残している所以だという。

私個人として、常々、イタリアに惹かれる三つの動機があった。一つは塩野七生の『海の都の物語』から受けた「当時のヴェネツィア共和国」に対する憧憬。もう一つは、私の二女が海外留学にドイツかイタリアかという選択にあたり、塩野七生が学習院大学を卒業して、イタリアのペルージャにある語学学校を卒業したこと。この事実を二女に告げ、イタリアを留学の地に選ばせた。塩野七生の『海の都の物語』は60年代の日本の海外進出とヴェネツィアの海外展開の状況と相通ずるものがあって、上下2巻を随分興奮して2回も読みかえした。

さらに1965年に初めてミラノを訪れたとき食べたパルマハムの味、1978年「ヨーロッパの食とギフトを学ぶ研修旅行」に参加して改めてイタリアの食文化の懐の深さを知り、イタリアの“食”について強い関心をもっていたこと。

モロゾフがテルニの観光局と連携してバレンタインの神様かつぎ出しに熱心で、バロック以前のイタリアの古典楽器の伴奏による、混声合唱団、アンサンブル・ミクロログスを神戸に招待して演奏会を催した。私もこのような一流のプロと一緒に歌わせてもらったりして益々、私のイタリア熱は上った。

ダイエーの仕事の方では「ベルばら」のバレンタインで大きな経験をさせてもらった。このプロジェクトには神戸コスモポリタン製菓を引きこんで、ダイエーの競争相手とはひと味違ったバレンタインセールを成功に導いた。日本チョコレートは「本命はあなたの手作りで」というキャッチコピーで、日本チョコレート工業協同組合の原料、MD(ミルクデラックス)を使用した割チョコを発売した。ダイエー全店でどのように美味しいチョコレートをつくるか、その作り方をビデオで流した。この企画がヒットしてダイエーにおける「PBの日本チョコレート」の地歩をかためた。

さらに1983年のバレンタインデーにはニューヨークのバレンタインセールの実情を視察、1985年は、インフォジャパン(InfoJapan)の設立、アール・エス・コロニーの設立とつづき、ソニークルエイティブプロダクツとの取引も開始した。翌1986年、モロゾフの「ヨーロッパの食とギフトを学ぶ研修旅行」に参加、ノイハウスとの提携交渉を始めている。

ダイエーの商品計画についても新しい切り口が絶対に必要であった。ダイエーの中抜き政策と東京産業の経営破綻はセットになって日本チョコレートの経営の根幹を揺さぶっていた。ダイエー一辺倒の取引を改善するためソニークリエイティブプロダクツおよび江崎グリコとの取引を始めた。このように日本チョコレートの営業政策は急激に変化していかざるを得なかった。私はモロゾフの松宮隆男の薦めもあり、井上優のライフスタイルマーチャンダイジングの勉強を始めた。

1988年3月、一家でパリ、チューリッヒ、ミラノ、テルニ、ネラックを周遊する初めての家族旅行をした。その後、私はブラッセル(ブリュッセル)に行きノイハウスと日本での販売契約を結んだ。6月、ノイハウスジャパン設立。11月、ノイハウス1号店を西麻布にオープン。

1989年1月、ノイハウスが契約を一方的に破棄することを通知してきた。2月から日本ノイハウスが経営を継承するという。(理由はチサンとノイハウスの間で、富永を立ち上げ屋として使おうというシナリオが早くから話ができていた。・・・・)この年、ノイハウスから受けた屈辱を晴らすべく精力的にヨーロッパを駆け歩いた。4月、スイーティ(ロンドンで行われる菓子博覧会)をダイエーロンドン事務所の須田正人バイヤーと視察、その足で、江崎グリコが日本の販売権を持つキャドバリー・バーミンガム工場を訪問したその後ベルギーへ渡り、ボヴィ・ミヤコの案内で供給先を物色した。8月、ソニークリエイティブプロダクツと江崎グリコのオリジナルチョコレート、クイックウイッツの製品化が決定した。

9月、二女正子がイタリア、ペルージャの語学学校へ留学のため渡欧した。上述のように1989年は公私ともにめまぐるしく事態は動いた。

1988年以降の日本チョコレートのプロジェクトは、すべてなんらかの形で「ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行」で得た体験に影響されたといっても過言ではない。

1987年の「ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行」の講義にはテキストがなかった。テキストは井上優の座談である。彼の発言に対して適応する参加者の感性が要求された。適応できないと、その場の雰囲気はしらけてしまう。私は松宮隆男の助言があったので井上優の著書を読んでいたのが役だった。

1987年5月23日(土)、10時に参加者は成田空港のエールフランスのカウンター前に集合した。11時45分、エールフランスの275便は成田を飛びたち17時05分パリドゴール空港へ到着した。空港内のラウンジで結団の会を開いた。20時00分、AF0321便でローマへ。ローマ到着、22時00分。ローマの高級ホテルといわれるホテル・エクセルシオール(Hotel Excelsiol)についたのは真夜中であった。

<つづく>

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