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ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (10)

投稿日: 2010年5月23日

ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (10)

1987年5月29日(金)

7:00  朝食

8:00  ホテル出発

9:23    ミラノ発 国際列車  IC 388         

13:00  チューリッヒ着    

     市内視察

17:00    スプリューゲンシュロスホテル

18:30  ホームパーティー   

前年とは逆にミラノから国際列車に乗りスイスのチューリッヒに入った。チューリッヒは私にとって3回目の訪問であった。今回もシュプリュングリ、オノルド、トイシャーは時間をかけて見た。そしてめぼしいものは見本を買った。いつ味わってもスイスのトリュフは美味しい。期待している通りの味がする。

オビさん宅でのホームパーティーも昨年と同じで、ご主人がホストとしてわれわれを接待した。余談になるが1988年2月18日にわれわれ家族は、一家そろってオビさん宅を訪問した。ちょうど末の子供が大学に入学した年だった。この時期を外すと家族旅行はできないと考えて行ったものである。この予感は的中した。その後家族揃って国内、国外ともに旅行する機会は一度もなかった。しかし、私は1986年に初めてオビさん家族と知りあって現在に至るまでチューリッヒを訪れる度ごとに旧交を暖めている。

5月30日(土)

7:00  朝食

7:30  ホテル出発

9:15   チューリッヒ発  エールフランス 681便         

10:25  パリ着      

    市内視察

18:00  ホテル着 インターコンティネンタル・パリ

19:30    夕食 サヨナラパーティー

いよいよ今回の研修旅行も最終段階に入った。バブル絶頂期の研修旅行で贅をつくした旅行であった。各地で空港からホテルに入るまで効率的に贅沢な観光バスに乗って市内観光ができた。この日はまた前年のレストラン、ル・プレ・ド・カタランで昼食をとったりした。このレストランについては以前に詳しく書いたので今回は省略する。ただ今回のように近畿ツーリストの観光バスがレストランの庭に乗りつけるため、「グループ扱い」である。したがって、メインダイニングで食事はとれない。宴会用の部屋での食事である。キッチンから離れると味もそれなりに落ちる。

当時、日本はバブルがはじける前夜であった。インターコンティネンタル・パリは西武グループに買収されていた。ここも近畿ツーリストが「海外旅行」を大衆化するのに一役買っていた。確かに以前ならばそう気安くこのホテルに泊まることはできなかったと思われる。本日、この項を書くにあたってインターコンティネンタル・パリについて調査したところ現在は名前が変わっているとのことであった。ダイエーも変わってしまったが、西武グループも同じように往年の面影はない。

この旅行に参加したメンバー企業の中にも既に菓子業界の表舞台から消えてしまった企業もある。失われた10年といわれるが、まじめに本業に精を出していた企業は残っているが不動産や株式に手を出した企業はほとんど大きな被害を被った。オーナー企業には大きな痛手を負ったところが少なくない。

本題にもどって、この度の「ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行」は終わった。私と母は1987年5月31日パリ・ノルド駅から列車でブラッセルへ向かった。それはノイハウスとの提携話をするためであった。1986年6月から日本でノイハウスから派遣されたデイヴィッド・アーノルド(David Arnould)と話し合って、日本でいう「稟議書」のようなペーパーをもって本社を訪れた。本社、ティーネンシュガーのトップマネージメントと会談した。本社の建物は伝統を感じさせる雰囲気であった。

昼食は本社の中で前菜、スープ、鴨のローストをメインディッシュとする本格的なランチであった。日本の企業ではこのような応接をするところは聞いたことがない。社長とノイハウス担当重役、顧問弁護士と私の4人分をこざっぱりとした部屋で接待してくれた。家に招待されて、昼食をよばれたような気分であった。昼食をふくめて3時間の会談であった。この会談により、本社の諒解が得られたものとして帰国後、本格的に一号店の開店に向け具体的な作業に取りかかることになった。このあたりの手順は日本と変わらない。

「ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行」は私が株式会社日本チョコレートを買収した直後の研修旅行であった。異常な土地騰貴の最中のことあったが、これは、われわれ菓子業界の感覚であって、実際には土地への投資は終わりをつげようとしていた頃であった。いわゆる「バブルの崩壊」の前夜であったのだ。自前の土地、物件を持って、土地の値上がりで生じた含み益を担保にして、また借入をおこして次の店舗を作っていくというダイエーの開発方式が破綻していくのである。水膨れのように肥大化したダイエーの組織はもはやそれまでの経営方式は通じなくなっていった。なりふり構わず「中抜き」を行ってきた背景はこんなところにあったのだ。しかし当時のわれわれには何が起きているのか分からない。毎日ひっきりなしに電話がかかり、先物をやらぬか、株を買わぬか、ゴルフの会員権を売らぬか、と「かね」の話ばかりである。この異常さはただものでないと感じていた。この種の電話は社長にとりつがなくてよいと社員にいいつけいっさい相手にしなかった。

さて、2008年6月8日から書きつづけてきた記事はまくらであって、これからが私が後の世代の人たちに伝えたい、否、伝えなければならない本論であると思っている。すでに本論に入っていなければならないのであるが、白内障の手術後、プリズムでは調整できなくなった潜在性斜視を4月22日に手術をしたため本日まで休稿を余儀なくされていた。1951年に潜在性斜視の手術をして以来再手術をしなければならなかったものを放置していたのである。さいわい経過は順調である。1回の手術で済むのではないかと思われる。医療技術の進歩は想像以上の進歩を遂げている。来週の末から10日ほどイタリア、フランス、ベルギーのサプライヤーを訪問するため、再び一時休稿することになる。

<この項おわり>

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