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独立の前後

投稿日: 2010年5月29日

独立の前後

私が独立したのは1987年4月22日であった。私は52才になっていた。42才のとき私がもう一生、日本チョコレート工業協同組合の傘下の会社である日本チョコレートで飼い殺しになるかもしれないと恐れ戦いていたときから10年が経過していた。この年の正月に父は死んでいた。独立後の世間の風当たりは予想以上に冷たいものであった。何よりも腹立たしくいまいましかったのは、得意先であるダイエーやニチリューに「日本チョコレートは日本チョコレート工業協同組合の後ろ盾がなくなったのですぐにつぶれる」という風評をまことしやかに流されたことであった。

確かに後ろ盾となっていた日本チョコレート工業協同組合の看板がなくなって変わったことはいくらでもある。それまで3ヶ月の手形で仕入れられていた商品代金は月末〆翌月末に現金か1ヶ月の手形になった。この厳しい条件をつけた人たちは20年間取引をしていた日本チョコレート工業協同組合の組合員であった。日本チョコレート工業協同組合の常務理事をしていた父が亡くなったことも組合員の脳裏にあったと思う。なかには「わが社は問屋さんに販売してもらわなくてもいい」とまで放言するものまであり怒るというより唖然としてしまった。年間取引が3億以上もあったのでこの暴言を聞いてもひたすら堪えるよりほかなかった。

幸いなことに新しく取引をした正栄食品は10億円を限度に3ヶ月のサイトをくれた。正栄食品の仕入が売上げの50%以上を占めていたので資金繰りは随分助かった。

大和銀行の態度も一変した。無担保、無保証の条件で一行取引をしていた条件を直ちに変更して、まず私の住んでいる土地建物に根抵当をつけること、そして私の連帯保証を要求した。。1987年は大量消費が美徳とされ、バブルはなやかなりし頃で、当時のわが家は3億円という途方もない評価であった。いまでは更地にして6000万円でも売れない。不動産バブルは5倍に膨らんでいた。90万円で買った美作カントリークラブのゴルフ会員権は1000万円で買いたいと言ってきた。実に10倍以上ではないか。狂気の沙汰である。

それはともかく、私は大阪青年会議所が、” Hire the handicapped”(身障者を雇用しよう!)というキャンペーンを行ったとき早川電気株式会社(1970年にシャープ株式会社と社名変更)の社長、早川徳治に会った。「失明者工場」(1950年に法人化)を自ら案内していろいろ話をしてくれた。その中で特に印象に残ったことのひとつが、事業はいつ潰れるか分からない、そのとき社長は従業員の生活を補償する義務がある。1923年の関東大震災でシャープペンシル工場を焼失したときの辛い思いを語り、売上げがゼロでも1年間は会社が倒産しないで、従業員を路頭に迷わせないだけの内部留保を心がけている、という言葉であった。

ダイエーの売上げが年々下がっていく中で、中心的なサプライヤーである東京産業の経営が悪化していく様子を座視することはできなかった。1981年の初夏にダイエーの中抜きや帳合変更が始まった。軟質ビニールでできた可愛いクリスマスブーツを長年納入していたが、チョコレート屋がクリスマスブーツとどんな関係があるのだのひと言で取引をバッサリ切られた。この時の商談を後ろで見ていた江崎グリコの常務が、ダイエーからの帰途日本チョコレートに立ちより、江崎グリコのクリスマスブーツの生産を依頼された。

江崎グリコの社長、江崎勝久は大阪青年会議所のメンバーであるところからダイエーの売上げが先細るなか江崎グリコに取引をしたいとこちらから社長に依頼しに行きたくなかった。そんなときに江崎グリコの方からお誘いがかかったのだ。本心から嬉しかった。1981年からクリスマスブーツだけの取引をして5年になり、取引額も5000万円を超えるほどの数字になっていた。これを機会に社長に会って、現在取引していることに感謝の意を表し、できれば東京産業に何か仕事を与えてほしいと頼みに行くことにした。

江崎勝久はチョコレートの開発部長と課長を応接間に呼びつけ「東京産業に何か注文を出してやってくれ」と言いつけてくれた。このような手順は私が最も嫌うところであったが背に腹はかえられなかった。それから半年ほどで新製品、「アーモンド棒e」という企画が完成した。日本チョコレートは間に入らず東京産業と江崎グリコとの直接取引にした。日本チョコレートが中に入ると何ら両社にメリットが出ない。なんとか「アーモンド棒e」は製品化されて広島県と静岡県のテストマーケット市場に出た。1986年度に全国発売されたがヒットには至らず間もなく市場から消えた。この時の結果は日本チョコレートには知らされず詳細は不明のままである。東京産業に対するてこ入れとしては、味覚糖のピアピアのアソートに多くの部品が採用されるよう力を尽くした。

江崎グリコには独立後、2000年までの13年間、様々な商品開発を手伝った。ダイエーの将来が不透明になってきたとき、早川徳治の言葉を思いだした。経営者の仕事は関東大震災のような事態が起きたときどう対処するかである。現代では大前研一が言うところの「プロアクティヴ・アプローチ」 (Take a proactive approach) である。最悪の事態になる前に、予防的に行動をおこすことである。

独立して最初に行ったのは唐突に聞こえるかも知れないが、年来悪化していた痔の手術であった。何といっても健全な身体が第一である。企業経営には身体の手入れから始めようと5月の連休を利用して横浜の痔専門病院に入院した。手術後痛みから解放されて大いに活躍することができた。

独立するまでにプロアクティヴ・アプローチとして、ソニークリエイティブプロダクツ、エトワール海渡、ベルギーのノイハウスに営業活動を行っていた。しかしダイエーにかわるべき大口得意先はそう簡単には見つからない。ソニークリエイティブプロダクツには1984年からアプローチをかけ、1985年、1986年の2年間、バレンタイン商品は納入していた。しかし雑貨と混載で配送するため、温度管理ができず、ブルーム等のクレームがあいつぎ1987年の5月に1988年の継続販売は見合わせると結論づけられていた。

この結論にチョコレートの購買をしていた部長や課長は大変気を遣ってソニーグループのどこか違う会社を紹介してやろうと言ってくれた。つまりソニープラザやソニーファミリークラブ等への紹介である。私はそれを鄭重に辞退した。それよりもソニークリエイティブプロダクツの組織の中で化粧品、雑貨の販売部門と違う部門を紹介してほしいと依頼した。つまりライセンス販売部門である。「モノ」ではない「ブランド」のライセンスを販売する部門にアプローチをかけることにした。

私は自分への挑戦として毎年1~2個の商標を特許庁に出願して、商標登録することを目標にしていた。大企業はコンピューターで3文字、4文字、5文字を組みあわせて商品にふさわしいと思われる日本語をアウトプットさせ、その中からめぼしいものを次々と登録していった。良い名前だなと思うものはほとんど登録できなくなっていた。それでも、そんななか私は60個ほどの商標を持っていた。1973年にダイエーの初めてのプライベートブランドを作ったとき、ダイエーは適当な商標を持っていなかった。そこで私の持っていた登録商標の中から「ゴールデンタイムズ」を譲った。ダイエーはその翌年、デイリー部門の商標であった「キャプテン・クック」に統一してしまった。江崎グリコにも資生堂パーラーにも譲ったことがあった。

私はかねてから、ソニークリエイティブプロダクツのマスターライセンスの海外プロパティの事業部門に興味を持っていた。「きかんしゃトーマス」、「ピングー」、「ピーナッツ」等無数のライセンスを持っていた。私は日本チョコレート工業協同組合のメーカーに影響力を発揮してプライベートブランドを製造することができなくなっていた。それ故、自分としてもライセンスビジネスを勉強してみたかったのである。

<つづく>

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