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英国のスイーティー、ベルギー視察 (3)

投稿日: 2010年10月4日 作成者: everrichquan

英国のスイーティー、ベルギー視察 (3)

コヴェントガーデンにあるロイヤルオペラハウスに着いたのは7時半を過ぎていた。すでに多くの観客がオペラの始まる間の楽しい時間をわくわくしながら開幕を待っていた。われわれの座席は2階真正面の位置にあった。19世紀に建てられた由緒あるオペラハウスで時間を過ごせる幸せをしみじみと味わった。日本には歌舞伎座以外は専門のオペラハウスのような専門ホールはない。劇場の中の雰囲気は英国独特のものであった。それはどこにあるのかと考えてみた。パリのオペラ座のもつ雰囲気のなかで英語が聞こえることであったと思う。演目の「皇帝ティトの慈悲」のシナリオはイタリア語である。舞台の両袖にある細長いボードに英語で台詞が翻訳されて写しだされるのである。今日ではこれは当たり前になっているが、当時は何と便利なものかと感動したことを今でも憶えている。

翌日からは典型的な日本人よろしく精力的にロンドン市内を動き回った。大英博物館に行って外観だけを観て、その近くにある王立音楽大学のなかに併設されている楽器歴史博物館に入った。観覧者はわれわれだけでゆっくり見学できた。音楽好きのものにはたまらない場所である。その向かいにロイヤル・アルバート・ホールがある。今回は行けないが将来必ず大英博物館ともども訪れてみたいと心に決めたが20年たってもまだ果たせない。

ロンドンに着いた日にサヴィルロー(Sevile row)を歩いていて常々ほしいと思っていたヘリンボーンのツイードジャケットを見つけ早速オーダーをした。女房もフラノ生地でダブルのオーバーコートを誂えた。その仮縫いに行った。グレゴリーペック(米映画俳優)のスーツを作ったことを誇りにしていた。店の名前はエドワードセックストン(Edward Sexton 現在の店舗)。襟付きのチョッキとベルトなしのスラックスをすらすらとデザインしてくれた。このスーツは20年ほどしたら身についてくるから胴回りは決して大きくしてはいけないよ、と何回も念をおされた。それから20年経ったが、いまでもまだ身につくところまでなっていない。

仮縫いがすむと、リッツのコンシェルジェで調べてもらった古本屋、ヘンリー・サザーン(Henry Sothern Limited)に急行した。オマルハイヤームの『ルバイヤート』(Rubaiyat of Omar Khayyam)とキーツの詩集が目当てだ。前者はエドワード・フィッツジェラルド訳、925部の限定本、発行は1900年。後者はめぼしいものがなかった。しかし『ルバイヤート』と同じ棚に並んでいたワーズワースの『ヤーローの再訪と他の詩』(William Wordsworth, “Yarrow revisited, and other poems.”)を衝動買いした。これはちょうど私の生まれる100年前の発行である。両書とも美麗本であった。ワーズワースはお目当てではなかったのだがつい買ってしまった。たまたまルバイヤートのとなりに置いてあっただけのことである。イエーツ(William Butler Yeats)もキーツもほしい詩集はあったに違いない。しかしそれを探しているとどこにも行けなくなる怖れがあったので勘定をすませて急いで出た。

タクシーを拾ってキーツハウス(Keats House)へ行った。すこし大げさに聞こえるかもしれないが、キーツハウス訪問は永年のあこがれの場所であった。卒業論文にキーツのエンディミオン(Endymion)を選んだ身としてはキーツハウスとその後ローマで死ぬまでのあいだ住んだスペイン広場を見下ろす部屋はぜひ訪れてみたかったところであった。結核のためわずか25歳でローマに客死した。短い人生で書いた珠玉のオードの数々は結核と闘っているあいだに書かれたものである。私が彼の詩に興味を抱いたのは高校生のときであった。ちょうどLP盤レコードが売りだされたころのことでエドモンド・ブランデンが吹きこんだキーツの「つれなき手弱女」(La Belle Dame Sans Merci)レコードを聴いたときからであった。キーツハウスは共同庭付き二戸一棟の住宅であったものを後に購入した引退女優が一軒に改造したものである。外観とキーツが使っていた居間はほとんど変わっていないらしい。庭の芝生に植えられたプラムの木の下であの有名な「ナイティンゲールに寄せて」(Ode To A Nightingale)が書かれたといわれているが今はない。かわりに桑の木が植えてあった。一軒にキーツの恋人となるファニー・ブラウン一家が住み、その隣にキーツが住んでいたのである。

翌日はチャーチルがロンドンで住んでいた屋敷を見に行った。彼が日曜画家であったことは有名である。彼の名前をかぶせた「チャーチル会」が日本にできたのは昭和23年頃だった。彼が好んで描いたという場所が庭にあった。彼は50年間に500点以上の作品を残した。そこに暫したたずんでいるとチャーチルの政治家としての懐の広さを実感した。同じ場所からでも対象は季節により朝昼晩とその色彩や表情が変わる。彼は飽きることなく自由に自分を遊ばせたに違いない。人間の幅と奥行き、政治家としての駆け引きや狡さは彼のVサインとともに人々に知られている。チャーチルの軍人として、政治家としての人間より一人の男としての魅力を彼の住処で嗅ぎとった。

英国特産の陶器、陶器のミニチュア建物、精巧な人形、ダンヒル、バーバリー等のブランド店を駆け足でまわった。なかでも気に入ったのはケント(Kent)のブラシであった。いまでも当時買った硬軟3種類の洋服ブラシは重宝している。バーバリーのレインコートはよれよれになったものを大丸東京店のリフォーム部で修理して現在も着ている。

1989年4月、バース(Bath)へ行く。これはやはりリッツの部屋に置いてあった多くの情報誌の中から見つけた’The leading Hotels of the World’ に惹きつけられたのである。リッツに泊まったものだからリッチな気持ちになったのかもしれない。ロンドンから近いバースにあるロイヤルクレッシェントホテル(The Royal Crescent Hotel)に魅せられたのであった。物見遊山に行ったわけではないので端折って書く。

(しばらく体調を崩して筆が進まなかったが、やっと秋らしい季節になったのでまた書き始めたいと思います。今後は時系列に書くことはやめベルギーでチョコレートを開発していった事案、スイスとのかかわり、フランスやイタリアで必ずしも成功しなかった事案についてプロジェクトごとに筆を進めたいと考えています。)

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