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誕生から青年団入団まで (0〜15歳)

やっとチョコレートを志す人たちに何か言葉を残そうと決心がついた。決心をつけてくれたのは畏友、月守晋の励ましによるところが大きい。この決心を補強してくれたのは次の2冊の著書である。それは河合雅司著の『未来の年表』(講談社現代新書、2017年)と、カレル・ヴァン・ウォルフレン著の『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社、1994年)である。私が育った軍国少年の時代と現在の日本は全く変質・変貌したものであることを強く認識している。社会評論家の大宅壮一の「1億総白痴化」と評論したテレビを初めとするメディアは、日本国民を平和ボケに陥れ、政治家、官僚、地方公務員、大企業の労働者を漫然と働く呑気な日本人に仕立ててしまった。これからの人たちは決して私たちの過ごした時代とは違うことを念頭において私の文章を読んでいただきたい。私が日本を脱出してベルギーに工場を設立したのはカレル・ヴァン・ウォルフレンの論拠を私が持っていたからに他ならない。また、私が2006年に中国に投資した新しい工場をそのまま置いて日本に帰ってきた理由は、河合雅司氏共著の『中国人国家ニッポンの誕生』を予感したからである。実際に中国の大倉市にチョコレート工場を建設して操業するにはチョコレートに対する歴史も、機械も、伝統の技も、何もないのである。チョコレート王国のベルギーとは勝手が違うのである。チョコレート工場を開業するためには13個の免許が必要なのである。日本チョコレート工業協同組合の土方専務理事の忠告は私をして直ちに総引き上げを決心させたのである。


富永勸。1935年(昭和10年)大阪生まれ。
1934年、父(嘉藏)の高級チョコレート製造の「アジア・コンフェクショナリー・カンパニー」(Asia Confectionery Company) の創業から1年目に男の後継者が生まれたと祝福されて生をうけた。父が創業したのは25歳のとき、郷里、鹿児島を出て満10年、僅か30円(現・15万円)の資本金で立ちあげた。場所は都島本通の二階建の五軒長屋の一軒を借り、仕事場10坪からのスタートであった。

父の生家は瓦製造業であったが祖父林太郎は酒好きが高じて、家業を倒産させてしまった。そこから嘉藏の苦労が始まり、12歳のとき年齢を偽り郵便配達夫になり市来町内の湊町、川上、大里をまわった。尋常小学校もろくに通っていない郵便配達夫に草書の漢字など読めるわけがない。通りすがりの人に「この字なんという字ですか」と聞いて多くの漢字を憶えたという。(市来町の面積 31.56 km²)

母は16歳で孤児となり叔母の経営する「ひのでや旅館」に奉公人同様にもらわれていった。しかし、母は約束通り広島県忠海高等女学校を卒業させてもらった。母の兄は広島高等師範学校(高等師範は広島と東京の2校しかなかった)を卒業し台湾の基隆中学校の英語教師をしていた。母は約1年間、兄夫婦と同居して外地の空気を味わっていた外地帰りであった。母は1万トン級の商船に乗った経験を自慢していた。

工場から4、5軒離れたところに一家は住んでいた。場末の狭い長屋に似つかわしくない蓄音器があった。ドリゴのセレナーデ、ビゼーの「アルルの女」から「メヌエット」、「ファランドール」、シューマンの「トロイメライ」があってよく聴いたことを私は今も忘れていない。母が嫁入り道具の一つとして持ってきたのである。5歳になると「愛国行進曲」、「紀元二千六百年」をレコードに合わせて歌った。「ああ、一億の胸はなる」のメロディーは今でも胸が熱くなる。

その頃、父は霞ヶ浦航空隊にビタミン栄養食(センターにビタミンを入れて糖衣したもの)を納入し少しは儲けたらしい。むさ苦しい長屋暮らしから南海沿線の諏訪ノ森に引っ越した。私は諏訪ノ森幼稚園に入った。園長の村山先生は園児を朝日会館の舞台にのせ「靴が鳴る」「雨雨ふれふれ」「愛国行進曲」を歌わせた。これ以来、私は国民学校、中学、高校、大学、卒業後も合唱一筋で唱ってきた。

童謡、唱歌、文部省唱歌で多くの詩とメロディを国民学校、小学校、中学校の義務教育で学ぶ国は日本以外では多くない。高等学校では音楽が選択制になり、生徒全員が歌曲やオペラを学ぶことはない。しかし私の場合、高等学校で学んだ音楽で私の人生を豊かにした学科は他にない。

太平洋戦争の始まった昭和16年にはチョコレート原料の入手が困難になり、父は大阪御堂筋の堂ビル前で慰問袋の専門店を始めた。屋号は「南進社」。左隣は弁護士、右隣は日本刀を扱う刀剣専門店。店の前では、常に千人針を呼びかける応召兵の奥さん方が立っていた。私は昭和17年、堂島国民学校に入学した。(森繁久彌の母校)。

昭和16(1941)年12月10日、ラジオから勇ましい「軍艦マーチ」が流れた。「わが帝国海軍はイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスをマレー沖海戦において撃沈しました。」この臨時ニュースを聞いて、私の心は高鳴った。私は、立派な軍国少年であった。

昭和19年、学童疎開で父の郷里、鹿児島県日置郡市来町大里へ疎開。「よそんもん」と呼ぶ猛烈ないじめにあう。さんちゃん農業(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん、男性の壮・青年は軍に召されていた)開墾など極めて貴重な経験を得ることができた。

祖母と昭和19年8月、母、弟ふたりの先遺隊として大阪をたって鹿児島県日置郡市来町大里に向かった。列車は遅々として進まず市来に着いたのは一昼夜以上経った翌日の夜中であった。歩けど歩けど大里に着かない。すぐそこだと祖母は言うばかり。やっと着いたところは父の従兄の家であった。台風の後で電灯はなく椿油の入った小さな皿の灯芯から明かりをとっていた。

毎朝、6時から裏山の八幡神宮の境内に3年生から6年生が集まり、木刀で立木を左右から叩く行事に参加した。全体主義のこの行事にはうんざりした。なぜか。集合時間の6時に遅れたものが一人でもいると連帯責任だといって順繰りに頬を殴らなければならなかった。ちょっとした落ち度でも「ふっ手回し」が行われた。毎朝、3回ぐらいの「ふっ手回し」があった。

いじめにあって顔に大きなみみず腫れの傷を作って帰ったとき母は「なんで仕返しをしなかったの」と、私をけしかけるように迫った。喧嘩の強い川向こうの部落のガキ大将にケンカの仕方を指南してもらった。喧嘩するからには喧嘩に勝たなければ何にもならん、と。まずいじめに来たら土下座して頭を下げろ。それでも殴ってきたら殴らせろ。これでおまえは勝つ。その時砂を握って立ちあがれ。砂を相手の目をめがけてかけろ。そして頭から相手の腹めがけて体当たりするんだ。そして脚を取って仰向けに倒せ。ポケットの唐辛子を相手の顔めがけて擦りつけろ。その日家に帰ると早速、左右のポケットに唐辛子を一杯入れた。唐辛子は二回使った。あいつは何をするか分からんと恐れられた。いじめは終わった。しかしいじめの体質は変わらなかった。意気地のないやつはいじめられ続けた。

稲作、大麦、小麦、桜島大根、からいも(サツマイモ)、じゃがいも、葉物野菜の植えつけから収穫まで腰が九十度曲がった祖母、農業などの重労働を経験したこともない母、国民学校3年生の勸の3人が自給自足の生活を強いられた。それまで食べたことのない糸うり(へちま)、にがうり(ゴーヤ)、にら、といもがら(ずいき)などの野菜を食べた。美味しかった。(現在の、にらもゴーヤも美味しくない。トマトも人参も不味い。)

農繁期になると部落長が「加勢」と称して人手の按配をした。私が「加勢」にいくと、「とっなが(富永)はこんな子供を遣しよって」と冷たい言葉を浴びせられた。担い棒で堆肥をよろめきながら運んでいると、後から来た優しい人(女性)が自分のぶんぎ(天秤棒で担ぐ「竹で作ったかご」)に取ってくれたりして人の人情を知らされた。

わが家の田畑の土壌改善のため毎朝堆肥にするため近所の土手に草刈りに出された。切れない鎌で指を怪我すると祖母が鎌の研ぎ方を教えてくれる。切れない鎌だから指を切る。切れる鎌は余分な力を入れないから怪我をしないことを悟らされた。草刈鎌、中厚鎌、厚鎌、なた、包丁などの研ぎ方を身につけていった。特に日頃なくてはならない小刀「肥後守」は、切れ味鋭いものを仲間で競った。

味噌、醤油は自家製で家ごとに作り方は違う。飯の炊き方、味噌汁の作り方、兎、雉子、鰻を捕るしかけの作り方、置く場所を学んだ。蛇については、青大将、盲蛇(めくらへび)、まむしの違いを実物を観察しながら教えてもらった。まむしが飛びかかってくるのを目のあたりにしたときは本当に気をつけねばならないと思った。蜂の襲来も恐ろしかった。蜂から身を守る方法を知らないととんでもないことになる。

家には福留實(父の実弟・帝国海軍の水兵)が残して行った雑誌「キング」があった。その連載もの『ロビンソンクルーソー漂流記』を貪り読んだ。その中に使われていた不撓不屈という言葉が好きになった。読むものがないので小柳司気太著の『新修漢和大字典』(株式会社博文館)の単語をかたっぱしから読んで憶えていった。この辞典は表装をやり替え今も使っている。一人になるとよく歌を歌った。歌ほど自分を慰めてくれるものはなかった。歌を歌うことによって自分の心が自然に和んでいくのが分かった。
https://youtu.be/rFwwa-_Q0LM

大阪にはない学校の休日があった。「農繁休暇」である。それも1週間もある。田植えと稲刈りの時期は必ず隣保班ごとに人手を供出するのである。私を出すと子供をよこしたと騒ぐので母が出るようにした。いままで農作業をやったこともない母は田植えや稲刈りから帰ってくるといつも決まって寝込んでしまった。寝込むたびに機嫌が悪くなりヒステリー状態になって家族は腫れものに触るように気を使った。飯炊き、味噌汁、葉物のおひたしを作る下知は布団の上から飛んできた。最後は肩、腰、脚のマッサージをやらなければならない。

両親の仲人の長男がやってきた。彼は予科練に入隊して、鹿児島の鹿屋基地で特攻隊の訓練中であった。母が腕によりをかけたご馳走を作ったが彼は坐ろうともしない。母は私に用を言いつけ外へ出した。帰って見ると母は泣いていた。訓練中に尻を木刀で殴られ尻が避け出血している、と忿懣やるかたなく述懐した。そうして泣きながら、この戦争は負けるかもしれない、と非国民発言をした。戦後、彼は徳田球一の鞄持ちになった。(後ほど、また、触れる。)

七夕踊り
大阪で育ったものにとって、七夕踊りは極めて異質の文化であった。はりこの鹿、牛、虎、鶴を作って部落中を練りまわす。殿様行列、じきじん(琉球)人踊り、本踊り(太鼓踊り)で豊年を祈る。人口が減少したため、2022年を最後にこの行事は終わった。400年続いた国の重要無形民俗文化財に指定されていたにも拘らず終わったのである。私は本踊りで村の青年ひとり、ひとりが長息を競って「ちとほほせまで、さあ、ははあて〜い (千歳まで)」 と歌うのが好きだった。何よりもその非日常性が魅力であった。市木町の他の数々の行事は閉鎖的で、陰湿なものが多くて私は嫌だった。https://373news.com/_news/storyid/160889/(元記事削除のためページなし)

近所の寄り合いで目の下1尺以上もあるマグロを捌く機会に母が腕をふるった。みんなが逡巡している中で、母が切れる包丁さえあれば、こんなの簡単よ、と衆目のなか手際よく3枚に下ろした。何もできない都会の女と蔑視していた母を見直した寄り合いの席だった。釣り人相手の「ひのでや」旅館で鍛えた腕だった。

母方の親戚の人が東京から来てくれたとき、「野口英世」の本と顕微鏡とハーモニカを土産にもらった。祖母が遠来のお客だからといって鷄を締めてご馳走するように言ってくれ、私は初めて鶏をしめた。それまで村の人が鷄を捌くのを見ていたので、その方法どおりを忠実に実行した。昨日まで餌をやって育てていたのに、かわいそうとは思わず美味いものが食えることが先だった。罠で捕まえた鵯 (ひよどり) や鰻の捌き方を学んでいた私には鷄の調理は易しかった。

5年生の秋、「理科の自然観察」の全国発表大会があった。私は「顕微鏡下の神秘」という表題で、日置郡の代表になり鹿児島県大会まで勝ち上がった。優勝こそ出来なかったが、聴衆のやんやの喝采の快感を味わえたことがその後の人生に大きく影響を与えたことは確かであった。

疎開中に悪い習慣も身につけてしまった。それは喫煙の習慣であった。戦時中、たばこは「金鵄(きんし、金色のトビ)」が各家庭に配給されていた。配達されると祖母が隣の家に持って行けという。隣の家はわが家との境界を毎月のように押しこんでくるのをいまいましく思っていたので持っていくようなそぶりをして、自分で吸ってしまったのが悪習の始まりで高等学校へ入るまで続いた。

1943年5月23日米軍上陸、29日日本軍のアッツ島玉砕の文字が新聞に大きく踊った。ラジオの方は「軍艦マーチ」でなく「海行かば」が流れた。玉砕ってどういう意味?と聞いても父も母も沈黙を守った。放送を聞いていて玉砕の意味が分かった。胸の中に異様な電気が走った。勇ましい話ではなかった。この先起きるであろう難儀が次から次へと襲ってきた。

ある日、山で開墾しているとき米軍戦闘機グラマンが飛来してきて機銃掃射をしてきた。一緒に仕事をしていた叔父(時良、實の弟)が「裸になってそこの岩に抱きつけ!」と叫ぶ。「白いシャツやパンツを繁みにかくせ!」グラマンは2回引き返してきたがわれわれを発見できず沖縄の基地をめざして帰投していった。あのときの機銃の音の大きさと弾の土煙は今でも忘れられない。多くの友、多くの住民が射殺された。まさか自分が狙われるとは思ってもみなかった。あのときのパイロットの顔も脳裏から消えない。グラマンは帰投するときガソリンを撒き、焼夷弾を1個落とし村を焼くのが軍令であったようだ。

私は叔父のおかげでグラマンからの襲撃から逃れられたが撃ち殺された同級生もいた。下校時、警戒警報もない中、突如飛来したグラマンに国道で射殺された。国民学校4年生の私は訳もなく私を襲った恐怖の顫から逃れられなかった。慄いはいつまでも続いた。グラマンの機銃掃射の爆音と米兵の操縦士の顔は87歳になった今も忘れられない。学校の登下校の時に何度も襲われた。国道の横を流れる新田溝に飛びこんで身を隠した。顔だけ水面に出して。父は昭和20年3月の大阪大空襲で焼き出され鹿児島に帰ってきていたが、大阪では地下鉄に逃げこめば爆音だけで助かったが機銃掃射は大阪より怖いといって一番先に防空壕に逃げこんだ。


3月13~14日の大阪大空襲:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

北海道部隊がわれわれの村落に駐屯していたが高射砲は一発も撃たなかった。防空壕に焼夷弾を落とされて焼き殺された同級生もいた。日本帝国陸軍は制空権を完全に失っていた。高射砲の砲弾も尽きていたに違いなかった。帝国陸軍は近く吹上浜に米兵が敵前上陸をしてくるので砲弾は温存しておくのだと強弁していた

1945年8月15日正午、雑音で理解不能の玉音放送を聴いて敗戦を知る。何よりもグラマンの機銃掃射から逃げる恐怖から解放されるという安堵感が先だった。父は大阪の工場と店舗を1945年3月13日の大阪大空襲の焼夷弾で焼失して、鹿児島に帰って来ていた。

大阪の店を再建する途中で父は詐欺にあい、結局再建できたのは1949年8月であった。私は9月から大阪へ戻り菅南中学校へ、次男嘉信は曾根崎小学校へ転校した。都会と田舎の学力差が酷く、数学は嘉信の担任の先生に家庭教師として教えてもらうことになった。

鹿児島で身につけたすべての経験は大阪の同級生よりも大人びていた。相撲、腕相撲、徒歩競争は誰にも負けなかった。数え15歳で入団させられた十五にせ(青年団)の経験はよくも悪くもその後の人生に影を落とした。墓掘り、開墾、大洪水の時の土嚢運びのような重労働と引きかえに、たばこ、さけ(いも焼酎)、女性関係等すべてご法度なしであった。夜這いの監視役は刺激的であった。

 

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