富永勸ヒストリー2

富永勸ヒストリー2
菅南中学

戦後、父は屋号を「南進社」から「南国堂」と改称した。原料の払底していたときだったので、菓子屋はまず「パンの委託製造」からはじめた。その後、戦前の誼から不二家の「ミルキー」の下請けが始まった。私はちょうどその頃、疎開先の鹿児島から大阪へ戻ってきたのである。赤鍋(銅鍋)で10キロずつ底に(焦げ)つかないように炊く仕事を毎日8釜炊かされた。自転車で製品の配達もさせられた。

そのうちヤミ市でPX(米国陸軍郵便物交換所)から放出されたハーシーの板チョコを父が入手してきて、ビスケットやソフトキャンディーにチョコレートを被覆するようになった。チョコレートはテンパリング(温度調節)が一番難しい。まずチョコレートを溶かし(約60℃)、その中に板チョコを小さく砕いて少しずつ投入しながら徐々に温度を下げていく。23度~24度まで下がったら再び温度を36.5度に上げる。この動作を温度計なしで行うのである。チョコレートの温度は下唇の下で見当をつけるので風邪などひけない。この作業を憶えたことは自分の人生にとって大きな恒産となった。

毎日仕事に追われて忙しかった。学校では鹿児島と大阪の地域の学力差は比べようもないほど大きかった。母に頼んで数学の家庭教師をつけてもらった。鹿児島ではゼロの概念を学んでいたが、大阪では連立方程式をやっていた。家庭教師は鶴亀算からやり直した方がいいと母に言った。鹿児島では鶴亀算、流水算、仕事算もやっていなかった。家庭教師のおかげで2年生の終わりごろには追いつけた。

国語の時間は関西学院大学から授業に来ていた先生が、ヴェルレーヌの「秋の日のヴィオロンのため息の….」一節を、”Les Sanglota lomgs Des violons De l’automne …” と、フランス語で詠み出されるのを聴いて腰を抜かすほど驚いたものだ。しかし「韻」の説明を学んで詩歌に興味を抱くきっかけになった。

当時台湾、満州(現中国東北地域)、支那(現中国)大陸から多くの教師が引きあげてきたので、大学の先生が中学や高校へ教えに来ていた。外地でも高校や大学の先生で、多くは高等師範の卒業生で子供を教えるような態度は微塵も感じさせなかった。後に高校でお世話になった数学の先生は満洲の建国大学の教授だった。注。建国大学(建國大学(けんこくだいがく)は満洲国の首都・新京にあった。国務院直轄の国立大学。)


難問は英語であった。母は後年、サンフランシスコのホテルで、私と、パリに住む次男夫婦と合流することになったとき、一人でやって来るほどの英語の素養があった。その頃まだ日本は米軍の占領下にあったので、日曜日に米国軍属の家族のために行われていた「日曜礼拝」に出席できるよう手配してくれたのは母であった。いつも近くの「うどん屋」の同級生と通った。

お目当ては「山上の垂訓」よりも、礼拝後の昼食であった。戦中、戦後を通してひもじい目にあった私たちは、見たことも、食べたこともない缶詰や瓶詰の食品は実に美味であった。コンビーフ、スパムポークランチョンミート、オイルサーデン、キッパーへリング、キャンベル・スープ、ホワイトアスパラガス、パイナップル、桃、杏の果物類、ハーシーチョコレート、等々。 礼拝の後の食事のときの経験、それは子供やその両親との英会話であった。この時の「日常会話」が後々役立ったことは言うまでもない。

菅南中学の近所に天満教会があった。そこにも無料の英語教室があった。”Stay where you are!”と”Stay right there!” の違いを学んだのは天満教会であったことを今でも記憶している。終戦後アメリカの有志の人々が日本の若者に手紙で文通する運動があって、ジャパンLPFクラブが『英文手紙の書き方』を昭和25年に60圓で販売していた。きつねうどんが15円の時代であった。私はペンシルべニア(Pennsylvania) の N.L.Kimberという敬虔なクリスチャンの老婆と文通を重ねた。若いオハイオ州のトロンボーンを吹く高校生、ニューヨークの高校生、Thelma Feigembaum、ミネソタの高校生たちとは5年くらいPen Pal の交流が続いた。ミネソタのLoretta Dejunaieとは20年後ロスアンジェルスで会った。離婚して2児の母になっていた。

次に足繁く通ったのは大阪市北区桜橋の産経新聞社の産経会館にあったアメリカ文化センターであった。「うどん屋」の息子の店の近くだったので二人つるんでよく行った。Life、 Newsweek など何でもあった。入館手続きもいらないし、われわれにとって楽園のようだった。英語は読めないが写真はわかる。アサヒカメラより大判のライフから多くの情報を得た。ロバート・キャパもライフから得た情報であった。美味しそうな料理や菓子の載った”Better Homes and Gardens”を貪るように眺めた。その時は原爆を落とした憎き鬼畜を忘れていた。図書館の司書員も子供相手に優しく相手にしてくれる。行くたんびに嬉しくて仕様がなかった。


500通以上ある当時のペンパルの手紙は今も保存していて、折に触れ読んでいる。

一通り英文の手紙を書く要領を身につけた後は「若草物語」(Little Women) のJune Allyson, Elizabeth Teylor, Margaret O’Brien,「子鹿物語」(The Yearling)「頭上の敵機」(12 O’clock High)の Gregory Peckにファンレターを送ってブロマイドを手に入れて悦にいっていた。
ペンパルと交わした手紙は中学のときだけでも300通を越えていた。ペンシルバニアの初老の熱心なクリスチャンとの交流はその後10年以上も続いた。やはり話題も豊富であり、私の高校時代のサブリーダーはだんだん高尚なものになり、交流は長く、また、深まった。

いつも「うどん屋」の息子と日曜日の午後は映画を見に行っていた。ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマンの「サラトガ本線」(Saratoga Trunk)、等々。タイロン・パワー、リタ・ヘイワースの「血と砂」(Blood and Sand) を見た日は、関西地方を襲ったジェーン台風の当日であった(1950年(昭和25年) 9月3日、死者336人、家屋全半壊4万戸)。台風でわが家の屋根は吹き飛ばされていた。この記憶は今でも鮮明に残っている。

鉱石ラジオに興味を持った。その頃はラジオが全てであった。鉱石ラジオの組み立てから3球、4球スーパーヘテロダインへと次々組み立てていったが、電蓄 (電気蓄音器) 組み立てまでは金の工面がつかない。日本橋のジャンク屋で部品を集めトランシーバーを組み立てた。最初は二言、三言で交信していたのだが、そのうち3分以上の会話が始まり、近畿電波管理局の知るところとなり厳重注意があった。親はもとより学校まで伝わり大騒動になった。私たちは法律違反をしていることを承知の上で交信を恒常的に行ったのだから確信犯とされた。


組み立てたラジオでFEN (Far East Network) を訳も分からずに聴き続けた。
英語の歌を聴いて歌詞を書いて憶えた。

You are my sunshine.
The other night dear, as I lay sleeping
I dreamed I held you in my arms
When I awoke, dear, I was mistaken
So I hung my head and I cried
You are my sunshine, my only sunshine
You make me happy when skies are gray
You’ll never know dear, how much I miss you
Please don’t take my sunshine away.   https://youtu.be/ckKeQNCyPBU

Too young. 
They try to tell us we’re too young
Too young to really be in love
They say that love’s a word
A word we’ve only heard
But can’t begin to know the meaning of
And yet we’re not too young to know
This love will last though years may go
And then someday they may recall
We were not too young at all
And yet we’re not too you to know
This love will last though years may go
And then someday they may recall
We were not too young at all      https://youtu.be/KaFtsqU2V6U

 

Tennessee Waltz, 
I was dancin’ with my darlin’
To the Tennessee Waltz
When an old friend I happened to see
Introduced her to my loved one
And while they were dancin’
My friend stole my sweetheart from me
I remember the night and
the Tennessee Waltz
Now I know just how much I have lost
Yes I lost my little darlin’
The night they were playing
The beautiful Tennessee Waltz.   https://youtu.be/VJ4g78BfsOw

 

その他、My foolish heart、 などなど。
しかし何回聞いても分からなかった曲はDinah Shoreが歌う”Buttons and Bows”であった。これは今でも分からない。

Buttons and Bows
East is east and west is west
And the wrong one I have chose
Let’s go where I’ll keep on wearin’
Those frills and flowers and buttons and bows
Rings and things and buttons and bows
Don’t bury me in this prairie
Take me where the cement grows
Let’s move down to some big town
Where they love a gal by the cut o’ her clothes
And I’ll stand out in buttons and bows
I’ll love you in buckskin
Or skirts that I’ve homespun
But I’ll love you longer, stronger where
Your friends don’t tote a gun
My bones denounce the buckboard bounce
And the cactus hurts my toes
Let’s vamoose where gals keep usin’
Those silks and satins and linen that shows
And I’m all yours in buttons and bows
(Silks and satins and linen that shows)
(And I’m all yours in buttons and bows)
Gimme eastern trimmin’ where women are women
In high silk hose and peek-a-boo clothes
And French perfume that rocks the room
And I’m all yours in buttons and bows
Buttons and bows
Buttons and bows

日本語訳は、  http://jazzsong.la.coocan.jp/Song313.html
ダイナ・ショアの歌   https://youtu.be/jfW9-0EzYxA
ローズマリー・クルーニーの歌  https://youtu.be/xdxTe3qUluY

 

ニュースも所々わかるようになった。例えばダグラスマッカーサー、トルーマン大統領は聴いてすぐ分かる。その前後の単語を注意深く聴いていると日本の新聞やラジオの情報とつながって時々分かることがある。38度線がthe 38th parallelと知ったときは嬉しかった。

https://youtu.be/KaFtsqU2V6U
Nut King Cole I

ペンパルとファンレター、そしてFENのおかげで中学を卒業するとき英語劇(Lincoln and a little pig) の主役、リンカーンを演じた。

音楽の時間は楽しかった。当時通っていた中学の音楽の先生は、大阪御堂筋と大阪地下鉄の建設の立役者だった關一大阪市長の孫にあたる不二樹好子先生であった。サンタル・チア(ナポリ民謡)、ほととぎす(暗路)、流浪の民(シューマン)、花(瀧廉太郎)、赤とんぼ、中国地方の子守歌(山田耕筰)、オールド ブラック ジョー、 マイ ケンタッキー ホーム、草競馬(フォスター)、野ばら、菩提樹(シューベルト)、埴生の宿(ビショップ)等々、鹿児島から大都会の大阪に出てきてイタリア、ドイツ、アメリカ、スコットランド、滝廉太郎、山田耕筰の歌を歌えることを心底から喜びを感じた。当時、銭湯で一緒に歌ってくれる大人もいて和やかであった。不二樹先生は美人であった。

英語の歌はテンポの速い歌、たとえばジングルベルを正確に歌えれば、英語のイントネーションとリズムが身につくと英語の教師に教えられた。Betty Hutton のDoin’ a
what comes naturally を「うどん屋」の息子と練習したものだ。https://youtu.be/Og_hAsXXDIA

「うどん屋」の息子とはクラシック音楽にも夢中になった。ゲルハルト・ヒュッシュのリサイタル(シューベルトの『冬の旅』)、藤原義江の歌劇(何を見たか忘れたが、多分『蝶々夫人』だったと思う)を産経会館に聴きに行ったりしていた。

大阪朝日学生音楽友の会 (AGOT) に入って巌本真里、諏訪根自子、辻久子などを聴きに行った。不二樹先生を好きになって、ピアノを習いたいと思ったのでピアノを買ってくれと父に言うと、翌日ソロバンを買ってきてこれを習いに行けという。音楽に飢えていたことを知っているのに。

菅南中学時代の部活はもっと身長がほしくて器械体操部に入ったが、身長は少しも伸びなかった。卒業間際に新聞部に入った。スピグラ (写真機) に触れたかったからである。そのころ朝鮮戦争(昭和25年6月25日、北朝鮮が38°線を超えて南進)が始まり従軍カメラマンのロバート・キャパに憧れていた。

1951年(昭和26年)カメラ雑誌で毎号のように応募して入賞している写真の上手い白川義員がいた。アマチュアカメラマンでありながら、息をのむような写真をモノにしている。羨ましくも妬ましくもあった。後年彼の『新約聖書の世界』、『旧約聖書の世界』、『仏教伝来』などの写真集を買って宗教の研究をした。
https://www.yoshikazu-shirakawa.com/works/work05.html
2022年4月に幽界に旅立った。白川義員は私と同い年だった。

中学時代に大阪美術館で開催されたマティス展を観に行って絵画に触発されたことは私の人生形成の重要な一要素となった。ピカソのキュービズムとマティスのフォーヴィズムが喧伝された時代に学校の課外学習の一環として鑑賞した。何に仰天したかと言うと彼の鉛筆による デッサンを見て魂消たのである。正確な写実が出来てこその抽象であることを学んだのである。

後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの英語のスキラ版の画集を、父に内緒で母に買ってもらい愛読した。チョコレートのテンパリングの技術は絵画のデッサンと同じであると悟ったのである。原料に異なった油脂を混ぜると温調が取れない。私のチョコレートに対する原点はここにある、と思う。

 

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