2009年10月15日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第四十六回 月守 晋
● 金融恐慌と神戸(2) 第六十五銀行が預金取り付けに見舞われたのは鈴木商店が同銀行株式の20パーセントを所有する大株主であることが判明したためだった。 鈴木商店は第1次世界大戦の戦需景気に乗って経営を拡大してきたが大戦終結によってそれ以後は巨額の損失を出し業績を悪化させていた。鈴木の資金面を引き受けていたのが台湾銀行で、第1次大戦後の不況が始まった大正9年10月に9千万円だった対鈴木商店の融資額は昭和2年には3億7千万円に増大していたという(『兵庫県百年史』県史編集委員会)。しかも台湾銀行が所持する震災手形は9970万円でそのうち9200万円が鈴木商店とその系列会社の振り出したものだったのである。(前掲書)。 4月8日の第六十五銀行の休業につづき、18日には台湾銀行と近江銀行の市内2支店が休業に入った。近江銀行の休業は関西の経済界に衝撃を与え、その余波が19日、20日にかけての滋賀・大阪・岡山・広島・山口各県の地方銀行の休業となって現れた。 鈴木商店は4月2日に破産したことを公表した。神戸製鋼所・帝国人絹、日本金属、帝国汽船などの60余社を数えた子会社、傍系会社はそれぞれ台湾銀行の管理下に入って経営をつづけるか売却された。破産後の鈴木商店の業務は大阪の直系会社日本商業会社が日商株式会社に縮小されて引き継いだ。 ● 市民生活への影響 金融恐慌は市民生活にも悪影響を及ぼした。 支払猶予令(モラトリアム)が4月22日に公布されると市民生活にも影響が出はじめた。モラトリアムの期間は4月22日から5月12日までの3週間とされ、モラトリアムから除外されたのは公共団体の債務の支払い、給料と賃金の支払い、1日500円以上の銀行預金の引き出しとされていた。 モラトリアムが実施されると米や鮮魚、野菜などの食料品の仕入れがすべて現金取引になり、資金の乏しい小売業者は仕入れに難渋する事になった。その反面、掛け売りがふえ、不景気を反映して消費物価が値下がりをつづけたため利益を出すのに四苦八苦の状態だった。 県内の産業も打撃を受けた。主要産業だったマッチ工業とゴム工業は原料の購入や賃金の支払いがスムーズにいかなくなり組合では生産額を半減することを決議している。 鈴木商店だけではなく市内に拠点を置く大企業も甚大な影響を受けた。 神戸市内に拠点をもつ川崎造船所は大戦終結と同時に造船不況に見舞われ、戦後を見すえた製鉄、航空機部門への進出のための巨額の資金投入が十五銀行の休業(4月21日)によって困難となり経営危機におちいった。 神戸市議会も万が一、川崎造船所が閉鎖されることにでもなれば市政にこうむる影響は甚大だとして6月4日に緊急会議を召集し「株式会社川崎造船所救済ニ付意見提出ノ件」を審議した。黒瀬市長は「職工が一万六千人、従業員全部ヲ加ヘマスルト一万七、八千人ニナル。其家族等ヲ加へマシタナラバ七、八万人ニナル。其他関係ノ商工業者ヲ加へマシタナラバ十数万人、関係者ガアル」と影響の大きさを述べた。 地元の「神戸新聞」「神戸又新(ゆうしん)日報」も連日“川崎造船所問題”をとりあげたがけっきょく政府の救済策は実現せず、会社は7月23日に3037人の工員を解雇、8月5日に254人の付属員、翌6日に206人の所員を解雇して事業を縮小整理した。 【参考資料】「歴史と神戸」第29巻第1号 |
食の大正、昭和史