月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第四十五回

2009年10月08日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第四十五回

月守 晋

 

●女中奉公をやめる

年号が「大正」から「昭和」へと変わった大正15年の春志津さんの女中奉公は突然終わりをつげた。養母みきが迎えに来たのである。志津さんには「いつまでも女中奉公みたいなもんつづけていてもつまらんから」と理由を告げた。

幼少期から病気がちだった大正天皇に代わって公務を代行するため皇太子裕仁親王が摂政に就任したのは大正10(1921)年11月25日である。天皇は当時42歳、明治34(1901)年4月29日生まれの裕仁親王は21歳、この年3月から9月までヨーロッパ諸国を旅行し、帰国して2か月半のちの11月16日には神奈川県と東京府とを演習場とした陸軍特別大演習を父天皇に代わって統監した。

天皇の病状が初めて公表されたのは前年、大正9年3月のことであり、その後同年7月、翌年4月、10月とつづき、皇太子の摂政就任が発表された同じ日に行われた第5回目の病状発表では「御姿勢は端整を欠き、御歩行は安定ならず、御言語には渋滞を来たす様ならせられ」「御脳力は日を逐ひて衰退あらせられ」と詳細に説明された。

大正天皇が神奈川県葉山の御用邸で崩御されたのは大正15(1926)年12月25日である。享年47歳。

天皇の死去によって「昭和」と改元され、わずか1週間の元年を経て翌昭和2年2月7日東京新宿御苑で大葬が執り行われた。

そして3月15日、昭和の金融恐慌がはじまるのである。

● 金融恐慌と神戸

大正12年9月に発生した関東大地震は思いがけない影響を神戸にもたらした。震災によって破壊された横浜港が使用できなくなり、代わって神戸港が輸出入品の扱い量を増加させたのである。神戸港は全国の港が取り扱う貿易額のシェアを11年の32パーセントから13年には41パーセントへと増加させている。震災後に生産と輸出の拠点を神戸に移した企業も少なくなかった。

しかし震災の影響は昭和2年には牙をむいて日本経済に襲いかかる。その元凶が「震災手形」だった。(1)

震災手形は14年までに整理を終えることになっていたが、昭和2年現在にも経営不振の企業が振り出した決済不能の手形が大量に残っていて、その額は2億700万円にも達していた。

昭和2年1月、政府(若槻内閣)は善後処理法案と損失補償公債法案を議会に提出、審議が紛糾してながびくなか3月14日に片岡大蔵大臣の誤情報に基づく失言(「東京渡辺銀行が破綻しました」)でいっきに恐慌へ突入したのだった。

片岡失言の翌15日には渡辺銀行とその姉妹銀行のあかぢ貯蓄銀行に預金者が引き出しに殺到し両行が休業、この休業がさらに預金者の不安をつのり、取り付け騒動は全国の各銀行にひろがった。

神戸では3月22日に市内で3支店を経営していた村井銀行の各支店が休業したが、23日に手形2法案が議会を通過したため取り付け騒ぎはやや沈静し、全国的にも25日頃から平静さを取り戻しはじめたのである。

しかし、市内に本店を構え三井・三菱と肩を並べようとするほど総合商社として急成長を遂げてきていた鈴木商店とその系列会社を擁する神戸では4月に入ってからが恐慌の本番だった。

まず4月8日に市内に10の本支店、大阪市に3支店をもつ第六十五銀行(資本金1000万円)が800万円の預金引き出しにあいこの日から2週間の休業に入った。

(1) 震災手形・・・・・・震災発生後、政府は被災地の債務に対し30日間のモラトリアム(支払猶予令)を発布する一方、市中銀行が割引した手形の損害を日本銀行が補償する「震災手形割引損害補償令」を併せて発布した。

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