月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第四十九回

2009年11月05日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第四十九回

月守 晋

 

●志津さんの三菱造船所時代(2)

志津さんが勤めに出ていたころの三菱造船の所長は、徳大寺則麿というひとであった。この人は神戸が本籍地で、東京帝国大学工科大学造船学科を出て明治36年10月に三菱合資会社に入社、大正14年7月に神戸造船所副長、翌15年6月に所長に昇格している。所長としては第7代目に当たるが、神戸造船の所長は代々、東京帝大の造船学科出身者で占められていて徳大寺所長の前・後任も同窓の先輩・後輩である。

志津さんはこの所長のことを、お公家さんのような面長の美男子だったといっていた。昭和30年ころまで邦画の俳優に徳大寺伸という男優がいて“お公家(くげ)さん”の出身といわれていたが、写真を見ると徳大寺所長も端正な顔立ちで“お公家さん”を連想させる雰囲気をもっている。

徳大寺所長の在任期間は昭和9年1月までの約8年間だが、この8年間はまさに昭和不況期に重なる期間で、所長直属の4部4人の部長のうち3人までもが昭和6年から7年の2年間に急死しているという。

ここの所長を勤めた後は東京本社に転任されて三菱合資会社系列の役員、さらには本社参理事といった地位を目指すのが通例だったようだが、徳大寺所長は本店入りを拒否して六甲に新居を構えて引退してしまったという(『和田岬のあゆみ』中/李家孝)。

大正10年ころからドックに修理に入ってきた船の錆落としに雇われて「ケレンケレンに行ってくるワ」と出かけていた兄・悟もこのころ造船所で働いていたはずだが、悟と同じように神戸市内の小学校を出たあと尋常高等小学校の高等科2年を卒業して大正4年、縁故を頼って入社した人物の回想記が『和田山岬のあゆみ』(中)に載っている。

*店童* 入社時の身分は「店童」というもので、“コドモ”と呼ばれる給仕だった。和服に木綿の縞のはかま、麻裏ぞうりという服装で出社し所属は庶務課だったが他の課の店童が休むと会計課、見積課、受付けとどこへでも回された。兵庫本町にあった郵便局にも本役の受付係りが休みのときは自転車に乗れないので人力車を走らせて代行したという。大正10年入社の元社員の回想に「社用で出かける時には玄関先で交通掛の人力車(5,6台あった)に乗せられ」とあるので、人力車がこのころの社用の乗用車だったのだ。

そのころの「私の日給が25銭で、東京帝大卒業者の初任給が月45円」だったという。

通勤は国鉄東海道線の兵庫駅から和田岬線に乗り換えるか、30分ごとに出ている造船所と三菱倉庫のランチ(小型原動機船、メリケン波止場-高浜-倉庫-造船所)に便乗するか、徒歩で西宮内通り-兵庫大仏(能福寺大仏)前-真光寺前-運河回転橋-真っ直ぐ造船所のコースか、回転橋を渡って尼寺の前を左に曲がり外墓の塀ぞいに新川遊廊横から和田神社前に出るコースを取っていた。

話は横道に入るが、大正から昭和の初期、11月15日から始まる「誓文払い(歳末大売り出し)」では西宮内商店街は河内屋、明石屋、紀ノ国屋、山下、山梅などの呉服屋が店先に商品を積み上げて、赤いねじり鉢巻きに赤じゅばん姿の店員が黒山の買い物客相手に口上も面白く売りさばいていたという。

能福寺の大仏は露坐仏で正月の参道の両側には小さな店がずらっと並び、お年玉をもらった子どもをねらって、生姜糖(しょうがとう)にみりん粕(かす)、タコの代わりにコンニャクの入ったタコ焼きもどきの玉焼き、焼きするめ、ひょうたん型の器に入ったニッキ水、綿菓子、べっ甲あめなどを売っていた。

大仏の線香台を捧げている2人の童子は「おびんずる」と呼ばれ、お詣りきた人は線香の煙に手をかざしておびんずるの頭をなで、その手でおぶっている背中の子の頭を「かしこなれ、かしこなれ」となでたものだという。(『神戸の遊びと遊び歌-大正・昭和の兵庫かいわい』三船清/のじぎく)

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