月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第十八回

2009年03月11日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第十八回

月守 晋

 

●神戸市の米騒動(2)
8月12日午後6時ころ、白シャツに足袋裸足、手ぬぐいの鉢巻き姿という70名ほどの1群が湊川公園に繰り込んできて、夕涼み客やヤジ馬と合流し3千500名ほどにふくれあがると、群集は北新開地の路面電車道に押し出した。

ここで群集は2隊に分かれ1隊は多聞通りを東進、主力隊は勢力を増しながら有馬道付近で3隊に分かれ、その1隊が9時ごろに楠町7丁目の兵神館(借家管理業)を襲って破壊、別の1隊は荒田町方面に向かってこの地域の白米商(と引用記事には表記してある)を片っぱしから襲撃した。そして「本隊ともいうべき大集団が「鈴木商店をほおむれ」と呼号しつつまっしぐらに相生橋をこえ東川崎町1丁目の鈴木商店に殺到」した。

相生橋をこえて相生橋警察署前を南下したおよそ800名は神戸商業会議所前を東に折れて宇治川筋にある神戸新聞社前の鈴木商店に押し寄せる。

ときに午後8時20分。

手元にある大阪・和楽路屋が大正7年に発行した神戸市街全図は縮尺1万2000分の1、ただし単位は丁(60間、約109メートル)という代物だが、湊川公園を出て5丁(550メートル)ほど南下すると新開地、電車路の多聞通りを東へ10丁半(約1.1キロ)湊川神社前を通って相生橋を渡ると警察署、そこから電車路を東へ1丁半、警察署から3つ目の通りをはさんで東側に神戸新聞、西側の斜め向かいに三菱会社が書き込まれている。記事には「わが神戸新聞社前なる鈴木商店」とあるので、三菱の北側、地図では空白になっている部分に鈴木商店があったようである。神戸新聞社の東隣が神戸又新日報社である。

別動隊約150名が襲った鈴木家旧宅は本店からさらに東へ6丁ほどの栄町4丁目にあったが、群集は家財道具を表道路に投げ出し積み上げて放火、焼尽した。

ちなみに志津さん一家が当時住んでいた羽坂通3丁目は、湊川公園から南下して多聞通にぶつかったところで西へ電車路を兵庫停車場まで進むと停車場の北上にある。湊川公園を南下する通りをはさんで、神戸新聞社や鈴木商店とちょうど同じ距離くらい西の方向である。

ところでこの騒動に加わった人びとの間には、お互いの行動を規制する暗黙のルールのようなものが働いていたようである。

たとえば米屋に対しては、「一斤二五銭で売ることを強要する『強買い』が行われた。・・・・・あらかじめ打ち合わせをしたわけでもないのに、騒動をおこした側には一定のルールがあった・・・・。この二五銭という値段は、騒動の前年の標準米価であり、民衆の生活状態が最も良かった時の米価であった。つまり、民衆は自分たちの本来こうあるべきだという共通の倫理感と生活秩序に基づいて騒動に立ち上がった・・・・・」(『新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』PP.551-555)。

上掲書には、鈴木商店の焼き打ちの際にも「付近の住民に注意を促すなど、周りに迷惑がかからないようにという配慮が見られ、ねらいは鈴木商店だけであるという目的の明確な行動」だったと述べられている。

これを裏付けるようなインタビュー記事を『神戸新聞による世相60年』が載せている。鈴木商店に放火した時が20歳の青年、インタビューを受けた時は60歳の老人になっていた。彼は13日夜神戸を脱出し、以後20余年間、横浜をはじめ各地を転々とし、再び神戸に戻って時効になるまで潜伏していた。

「一斤二十五、六銭の米が六十二銭八厘というベラ棒に高い米になったのは、鈴木が米を買い占めて、米を倉庫に隠しているからだ、という噂が八月四、五日ごろ出ていました。<中略>鈴木が目当ての放火で、別に神戸新聞や近くにあった民家に火をつけることははじめから考えていなかったので、井上医院などに、わざわざ行って、「いまから鈴木に火をつけるから、お前さんちは逃げて下さいよ」といってまわった・・・・」

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