2009年03月18日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第十九回 月守 晋
●神戸市の米騒動(2)続き 三宮署管内 179 『新修神戸市史 歴史編Ⅳ』には「歴史と神戸」創刊号からの引用で「神戸米騒動受刑者職業別人数」が掲載されている。それによると最も多いのが職人で懲役5年以上27人、未満15人、罰金4人の計46人、仲士が18人、12人、4人の計34人、商業が16人、5人、1人の計22人などで、総計では5年以上の懲役が89人、5年以下懲役55人、罰金23人の総数167人だった。 騒動の鎮圧には警官のみならず、軍隊も動員された。13日の夜、当時の清野兵庫県知事の要請を受けて姫路師団の400名が第1陣として出動し、その後増員されて総計は1140名に達している。この頃、こうした騒動に軍隊が動員されるのは当然と考えられていたようである。 米騒動は神戸市に、市民の生活を安定させるための社会政策を立案、実施させることになった。それが米の安定的な廉売事業、公設食堂と公設市場の設置である。 その資金には皇室からの「窮民救済」のための下賜金、市内の富裕層からの救済義金などが当てられた。8月25日までに集まった義金は140万円に達し(大正7年の国の歳出額は10億1703万円/『物価の文化史事典』)、うち80万円が米の廉売資金に、50万円が物価調節費に、10万円が貧民救済費として使われた。極貧者への施米、官公吏・教員などへの米の廉売(1斤25銭)は11月末まで続いた。 皇室からの下賜金(2万6704円)に義金を合わせた3万5154円を基金として市内3か所に公設食堂が開設され、新たな寄付金を基に市営の小売市場が物価を調節することを目的として開かれた。 <公設食堂> <公設市場> 『新修神戸市史 歴史編Ⅳ』に収蔵されている当時の東部公設市場の写真を見ると、店は木造の長屋建ての平屋で、その前の通りには現在のアーケード風にやはり木造の屋根がついていて買物客の日よけ、雨よけになっていて、市当局の市民に対する配慮をうかがわせている。 この項をもう1人の自伝を引用して締めくくりたい。 「それは暑い夏の日であった。どこからいうのでもなく私の家が襲われて焼かれるという噂が立った。・・・・私たち家族は近くの福海寺という寺に逃れ、そこの本堂の近くの十畳の部屋にかくまってもらったのであった」 筆者は明治42年神戸生まれ、映画評論家の故淀川長治さんである。(『淀川長治自伝 上』/中公文庫) |
食の大正、昭和史