2008年10月22日
|
食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年— 第六回 月守 晋 ■ 幼稚園の開設と普及 「幼稚園」という名称を発案したのは中村正直(まさなお・号を敬宇。明治4年『西国立志伝』を翻訳出版し多大の影響を与えた。1832-91)といわれている。世界で最初の幼児教育の施設として1837年ドイツでフレーベルが開設したキンダーガーテンKindergartenを和訳した。 わが国で最初の幼稚園は「学制」が制定されて3年後の明治8年、京都の上京区第30区小学校(柳池小学校)に付設して開園された。「幼穉(チ・おさないの意)遊嬉場」と名づけられたこの施設では定まった課業はなく、1人の女教師に見守られるなか大きな木製の積み木や絵本で自由に遊べばよい、とされていた。 残念なことにこの施設は1年半後に閉園されている。 TVタレントのタモリ氏は入園することになっていた幼稚園を入園前に“視察”に行き、団体遊戯をしている様子を目にして「あんな恥ずかしいことはできないよ」と思って幼稚園に入るのをやめてしまったけれど、行っておけばよかったなと今になって後悔してると発言していたが、幼児の興味を尊重して、1人遊びのできる柳池遊嬉場なら、喜んで通っていたかもしれない。 「学制」領布の4年後、明治9年11月16日に初めて「幼稚園」の名称をもつ施設が東京で開園した。これが東京女子師範学校付属幼稚園である。ドイツ人の松野クララが首席保母を務め、豊田ふゆ、近藤はまらが保母として働いた。お手本にしたのはフレーベルの幼児教育理論とその実践施設であるキンダーガーテンだった。 開園時の幼児数は75名、それが年度末には男児101名、女児数は57名、計158名に増えた。通ってくるのは馬車や人力車に乗せられ、女中や書生につき従われた上流富裕層のぼっちゃん嬢ちゃんばかりだったという。 その後、明治11年にこの付属幼稚園で保父をしていた豊田英雄が鹿児島県の委属を受けて同県の幼稚園施設に尽力し、翌12年には近藤はまが東京芝公園内に近藤幼稚園を設立した。 幼稚園の数は時代が下るとともに増え、明治40(1907)年には全国で園数386、保母数1066人、園児数35,285人にまで伸びている。この数字は大正6(1917)年には園数677、保母1892人、園児55,573人と増加する。しかし、同じ大正6年に神戸全市だけでも学齢児童数(年度末に6歳1日以上に達した児童数)は59,204人を数えるのだから、全国の総児童数からみればほんの一握りの上層富裕家庭の子供しか幼稚園に通わせてはもらえなかったということだろう。 わが国の幼稚園は公立よりも私立を中心に普及した。特にキリスト教や仏教などの宗教団体が布教目的で設立に尽力したことが大きく貢献している。 この稿を書くのにあたって参考にさせていただいた研究書(『図説・明治百年の児童史』上・下/唐沢富太郎著/講談社) には明治期の幼稚園教育の様子を写した写真が収蔵されている。それらは、たとえば明治23年に尾道幼稚園が年令5歳11か月になる小川亀藏少年に与えた1年10か月間の保育修了證、2人がけの長机長椅子を円型に並べてすわっている児童らの写っている華族女学校(女子学習院の前身)付属幼稚園の教場(明治31年11月号の雑誌「少年世界」に掲載された)、着物の上におそろいの白いエプロンを着て女の子は手ぬぐいをあねさんかぶり、男の子は向こう鉢巻きにして、どうやら団体遊戯を演じているらしい13人の児童たち。足元を見ると裸足だとわかる写真など、など。他にも積木遊びをしている日本女子大学校付属幼稚園の教室、蓄音機を聞いている東京女子高等師範学校付属幼稚園の園児たちの写真もある。 明治44年生まれの志津さんが幼稚園に入れてもらえる年令の数え4歳に達したころ、つまり大正3年当時、志津さんが育った神戸市林田区内に公立、私立を問わず幼稚園が開設されていたかというと、たぶん一つもなかったろう。この件については市史などの資料にあたってみてもわからないままだ。 ところで、翌大正4年に、神戸の南京街で老祥記という店が、“豚まん”を専門に売り出した。神戸の中国人町である南京街は、元町通りと栄通りの間にあり、多くの中国人が商店を構えて、当時神戸に住んでいた5500人ほどの中国人の台所を支えていたのである。豚まん1個の売り値は2銭5厘だったとか(古川ロッパ『ロッパ悲食記』)。ちなみに、この年日本で初めて売り出した米国リグレー社のチュウインガムは10銭だった。 志津さんの記憶によると、志津さんが15歳で勤め始めた三菱造船所の売店では、豚まんは1個2銭だったという。 <参考> 『図説明治百年の児童史』 上・下/唐沢富太郎/講談社 |
食の大正、昭和史