2010年06月23日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第八十回 月守 晋
●料理の味 映画監督の山本嘉次郎のエッセイに京都の日常食について触れた文章がある。 山本嘉次郎は戦前、戦後を通じて軽いコメディや庶民のくらしに生じる哀歓をテーマに多くの作品を世に送りつづけた映画人である。 戦後の代表作は昭和24年に新東宝で撮った「銀座カンカン娘」だろう。 主演女優高峰秀子がスクリーンの中で歌う「あの娘可愛(かわい)やカンカン娘」のフレーズではじまる主題歌は戦後の世相の一面を象徴するものでもあった(ちなみにこの年日本人で初めて湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞した)。 “東京者”の山本嘉次郎が京都に移り住んだのは昭和と改元されたころで、当時の京都は現在とは違ってビルがほとんどなく撮影でビル街を撮る必要のあるときは神戸の海岸通りに出かけていたという。 「困ったのは食べ物で」と山本は書いている。 下宿でとる弁当のおかずが「いつもいつも、同じようなものばかり。高野豆腐、しいたけ、湯葉の煮たので、しかも、ひどく薄味で、水っぽい」。撮影所の食堂へ行けば「まめさんたいたん」と壁に貼り紙があり、なんだろうとためしに注文してみると「煮豆」だった。 「煮豆といえば味の濃いものと知られているが、これまた水っぽ」くて「悲しかった」し「死にたくなって」きた。 そして、「郷愁というものは、食べ物にしぼられるらしい。東京者にとって、海苔、塩鮭、納豆、塩せんべい、ぬかみそ漬、濃い醤油などのないことが耐えられなかった」とつづけている。 そばも「汁(したじ)が水っぽ」く、「天ぷらもだめ、蒲焼もだめ」で「寿し屋もなかった」し脂肪分の補給を必要とする東京育ちの若者の口に合うトンカツ屋もなかった。 寺町通りにあった洋食屋「村瀬」のトンカツは皿の左右にそれぞれ1寸以上もハミ出してしまうほど巨大なので知られ“わらじカツ”と呼ばれていたが、味が違ってなじめない。 やがて屋台店の1銭洋食を知る。 細い竹串の先にゴッテリ衣をつけた小指の先ほどのカツが刺してあり、目の前の大鍋で10本1たばにしてジュッと揚げてくれる。 これが1本1銭で屋台の正面に貼ってある番付表には「横綱360本」などと書いてあった。 『日本食生活史年表』(西東秋男/楽游書房)の昭和4(1929)年のページには「島田信二郎(もと宮内省大膳職)がつくったポークカツ、初めて「とんかつ」と呼ばれる」という記事がある。 その5年後の昭和9年、高級店でカツライスが50銭以上だった(『明治/大正/昭和世相史』社会思想社)とあるから、串カツ屋台の“横綱さん”は3円60銭の代金を支払ったあとでずいぶんと後悔したのではなかろうか。 神戸生まれで神戸育ちの志津さんと京都で世帯をもった広島の田舎生まれの哲二さんは京の味になじんでいたのだろうか。 哲二さんは高等小学校を出るとほどなくして上阪した。 20歳ころまでは大阪の街の小さな鉄工所で働いていた。 京都へはある程度の施盤工としての技術を身につけてから移住したらしい。 志津さんと結婚するまでには少なくとも10年ほどは大阪・京都でくらしてきたことになる。 その間に味の好みも当然、変わっただろう。 広島の山村の実家で食べていたものは、味噌も醤油も手製であった。 副食は自家の畑でとれた野菜か山野草の乾物で、魚は日本海側から来る行商人から手に入れる塩物であった。 肉は飼っている鶏を祭日や行事日につぶすくらいである。 そして味は、塩味の効いた濃い味のものだったのである。 |
食の大正、昭和史