月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第八十四回

2010年07月21日

『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第八十四回

月守 晋

 

●転職先を探す

家庭の経済的崩壊を避けるためにはまた新たに収入のいい仕事先に移るしかないと転職することを決心した哲二が相談したのは“小山さん”だった。 小山さんは哲二がまだ独身で京都市電の車庫で修理工として働いていた時分の先輩であり、哲二が日常的に食事の世話を受けていた「すずめ寿司」の常連でもあった。 年齢は小山さんのほうが一回りほども上だったが温厚な世話好きで頼りになるひとだった。

小山さんは哲二が世帯を持つ前の年に3人の子供を連れて「満州」に渡り鞍山(あんざん/以下地名は日本語読みで表記)の製鉄所に勤めていた。 哲二とは文通によってお互いの消息を知らせ合い交友が続いていたのである。

昭和7年に生まれた長男にひきつづき、父親新二郎が逝った8年の初冬に次男が生まれていた。 そしてさらに翌9年の初夏には志津さんがまた身籠っていることがわかった。 男の子の年子につづいて第3子が生まれるとなれば、哲二・志津夫妻は結婚後4年にして3人の子持ちになるわけである。

ぐずぐずしている暇はなかった。

さいわい哲二の転職相談の手紙に小山さんから懇切な内容の返事がきた。それには「こちらへ渡ってきてすぐ正規社員になれるわけではないが、臨時の仕事なら口はあるから喜んで紹介する」というものだった。

外地の満州であれ臨時工であれ贅沢は言っていられなかった。 内地(日本国内)には200万人を超す失業者が巷に溢れているのである。 いま現在の勤め口より条件の良い仕事口が見つかるとは思えなかった。

満州へ渡る決心をつけると、哲二はまず預かっていた妹のナツを故郷へ送り帰した。 引き替えに兄から遺産分けだと幾ばくかのものが送られてきた。 それが渡航の費用になり残していく志津さんと2人の子どもたちの生活費になった。

哲二は昭和9年10月、単身で満州へ渡ったのだった。

小山さんの勤めていた鞍山製鉄所は後にやや詳しく述べる「満鉄コンツェルン(多分野にわたる企業を統括する総合企業対)」が1918(大正7)年5月に設立した会社である。

鞍山は現在は中国東北部の遼寧省と呼ばれる地区にある。 遼東半島の最南端に位置する大連市から約300km北上した地点である。

鞍山に鉄鉱石が埋蔵されていることを発見したのは満鉄地質課長の木戸忠太郎だという。 この人は明治維新の元勲木戸孝允の次男にあたる。 木戸孝允は幕末、京都で倒幕運動に活躍した長州藩士桂小五郎のことである。 現在放映されているNHK日曜日の連続TVドラマ『竜馬伝』にも重要な脇役として登場している。

鞍山の鉄鉱石を発掘利用する権利を日本が獲得したのは1914(大正3)年のことであった。 この年7月第一次世界大戦が勃発するとイギリスの要請を受け入れて日本は8月に参戦、ドイツに宣戦を布告してドイツが権益をもっていた山東半島を攻略してその権利を手中に収めた。

さらに満蒙地域の事実上の日本領土化ともとれる「二十一カ条の要求」を当時の中華民国袁世凱(えんせいがい)政府に突きつけこれを承諾させた。

この条約は中国国内に反日民族運動の嵐を引き起こし、やがて1919年の全国的な民衆運動「五・四」運動に発展するのだが、ともあれこの条約によって認められた鉱山採掘権を活用して鞍山製鉄所が誕生したのである。

満鉄は3000万円を投資して銑鉄100万トン、鋼材80万トンの生産を目的に1919年4月、第1高炉の火入れが行われた。

第1年目の生産額は3万1620トンに過ぎずトン当り販売価格は125円だった。

注:『年刊満州』康徳8(昭和16)年版に「唐の太宗が高麗遠征の際この付近で製鉄を行い、その時の採掘跡が鞍山製鉄所の鉱区内で発見されている」とある。

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