2009年11月11日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第五十回 月守 晋
●三菱造船所時代(3) *修業生* 大正4年に神戸市内の尋常高等小学校高等科2年を終えて「店童」として三菱造船所に入社した少年は修業生制度のあることを知って、学力不足を補うために夜間の市立兵庫実業補習学校に通った。2年後に造機製図修業生採用試験に合格、同時に25銭の日給が倍額の50銭になった。修業生の身分は「社員と職工との中間」だった。 修業生の年限は5年間で無事終了すると「技手」に昇格できた。修業生の間は教室に当てられた本館応接室や職員食堂、職工食堂で午前中は学科、午後は製図実習、帰宅後も夜間市立兵庫実業補習学校へ通うことが義務づけられていた。このころ製図室から多くの病人、とくに胸を病む者が出たという。 少年は11年3月卒業試験に合格、4月1日付で技手に昇格した。 *職工学校* 三菱造船所は大正8年に「職工学校」も設けている。 大正12年に他の会社からこの学校の教諭として転職したのちに校長も勤めた人物の回想によると「能力のある幹部職工を養成するため」であった。 「職工」を現わす言葉として流行語にもなった“菜っ葉服”がこの学校の制服だったが、ボタンだけは三菱のダイヤモンドマークに「エ」の字をはめ込んだ金ボタンだった。しかし当時は学生服は黒か茶褐色ときまっていたので菜っ葉色の「青服」は世間的にも学生らにも評判が悪大正10年には1、2年生による“制服改正”運動が起きたという。もちろん学校側は「萌え出る若葉の色は高遠な理想、希望に輝く将来を暗示する」ものだと断固としてはねつけている。 この職工学校は『和田岬のあゆみ』に眼を通してみたかぎりでは昭和10年までは継続して運営されている。 *年期制度* 小学校や高等小学校を卆業した少年を採用する制度として「年期制度」という制度もあった。小学校卆業だと数えどしの12歳、高等科2年を終わっていてもせいぜい14~15歳である。現在なら“労働基準法”違反だが当時は明治44年制定の「工場法」で15歳未満の子どもを就労させることができたのである。 職工学校の創立後に年期制度は廃止されたが大正6年当時、小学校卆の年期が4年、高等科卆は3年3か月で日給が15銭と17銭だったという。 *身分制度* 大正14年に本社である三菱合資会社の従業員資格等級(身分制度)を現す用語が統一されたのにならい、造船所でも統一された。 役員 三菱合資の総理事、常務理事、参与。分系各会社取締役、監査役 職員 役員以外の正員と準員 雇員 事業所限りの傭員に準ずる者 職工 職工・鉱夫・仲仕・水火夫などの労働者で雇員以外の者の総称 明治の創業時には工員にも小頭・小頭心得・組長・伍長といった資格等級があり、これが大正に入って小頭・小頭心得を工長・工長心得といった現代風の呼称に変えられた。さらに昭和に入ると現場の作業員の他にも製図とか記録といった事務的仕事にたずさわる工員もふえたのでこれら間接工に1等から3等まで「1等製図手」「3等記録手」というふうに「手」制度が設けられた。 従業員は構内に出入りするときには記章をつけていなくてはならない。 志津さんが働いていたころの事務関係職員は紺色の円の縁に白地に赤のダイヤモンドマーク、技術関係者は銀円の縁に紺地に白のダイヤモンドマーク。工員で第1通用門から出入りする者はだいだい色の地の横長の矩形の真ん中に黒線が引かれその上に赤色ダイヤモンドと下に職番(工員の個人番号)、第2通用門出入り者は形が縦長だ円形で同じようにマークと職番が入っている。職員記章は銀台で七宝焼き、工員記章は真ちゅう製だった。 |
食の大正、昭和史