2008年10月01日
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食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年— 第三回 月守 晋 ■1枚の写真 大正2年の正月を迎えて、志津さんは数え年3歳になった。 話が脇道にそれるけれど、日本人は昔から正月を迎えると自分の年齢に1歳を加えて数える慣わしだった。この数え方にはお母さんのおなかの中にいた10月10日(とつきとおか)が無意識のうちに加算されていると考えたい。受胎のメカニズムはわからなくとも、授かった生命を胎内で懸命に守り育ててくれた母親の努力をわかっていたし、新しい生命は受胎のその時に始まるということもわかっていたにちがいない。0(ゼロ)歳児とか満年令という考え方よりこちらのほうがごくごく自然ではなかろうか。 それはともかく、1枚の写真が残っている。5cm四方に満たない白黒写真で、小さな火鉢を囲んで3人の大人の女性がすわっており、手前のほうに火鉢と少し離れて、右向きに横を向いて女児がすわっている。3歳ぐらいだろうか。ちゃんと正坐をしており、和服姿だ。肩揚げのしてある羽織か、綿入れを着ている。これがただ1枚、志津さんが生みの母親と写っている写真だという。 第1回に志津さんは傅治・みきの次女・みさの生んだ子だった。みさは鐘紡の工場に働きに出ており、ここで電気関係の仕事をしていた大垣静夫と知り合い実家の2階でくらすようになった。しかし静夫はみきとの折り合いが悪く、志津さんが生まれる1か月前に、ついに家を出されてしまう。ちょうどみきも妊娠していて、みさと産み月が同じだったので、娘みさの産んだ女児を自分の6女として届け、自分の産んだ男の子は翌年、1年遅れで5男として届け出たのだ。 届け出の順序が逆でもよかったはずだが、女の子のほうが成長が早く、家の役に立つのも早いからということだったらしい。志津さんの名前は、せめて名前だけでもと父親にちなんで実母のみさが命名したという。 ■子育ての儀礼 女児なら生まれて33日目、男子なら32日目に初宮参りをする。近くの氏神様に参るのがふつうだが、都会では名の知れた神社に行くことが多い。 100日目にはお食い初(ぞ)めをする。小豆(あずき)を入れた赤飯を炊いて、1粒でもいいから食べさせる。「歯固め」ともよばれ、新生児が歯がはえるほどに育ったことを祝う儀式だ。 現在では節句といえば女児は3月3日、男児は5月5日と決まっているようだが、地方には七夕(たなばた)や八朔を初節句の替わりに祝うところも残っているらしい。 新生児の初節句はことに、母親の里や親類縁者から雛人形や手まりなどを女児に、幟(のぼり)や天神人形、凧(たこ)などを男児に贈り、盛大に祝う習慣だった。 数え年について触れたが、その時代でも初めての誕生日だけは特別なものとして盛大に祝っていた。誕生日を迎えるころにはほとんどの新生児が歩き始めているが、その児の背中に一升の餅米をついた1升餅を背負わせ、立たせたり歩かせたりして子どもの生長を喜ぶということも行われていた。 成育儀礼の最後を飾るのが七五三だ。地方によって3歳・7歳の女児と5歳の男児とか3歳と5歳の男児と3歳と7歳の女児というふうに組み合わせはいろいろあるらしい。 七五三は江戸時代に始まったといわれ、それ以前には3歳の祝いに「ひも(紐)落とし」とか「おび(帯)」結び」という乳児が幼児期に入ったことを祝う儀式が行われていた。「ひも落とし」は子どもの着物の前合わせが乱れないように身ごろに縫いつけて、後ろに回して背中で結ぶようにしてある「ひも」を取って帯に替えることであり、初めて帯を締めて晴れ着で氏神様に詣でるのが「帯結び」である。両者は同じ成育儀式である。 さて先に紹介した古い写真の中の3人の大人の女性と1人の女児、ことに帯をつけ羽織らしきものを着せてもらっている女児の姿を見ると、あるいは近くの神社に「帯祝い」に行き、戻ってきて一息ついているところとも想像できるのである。 参考: 『日本を知る事典』 社会思想社 |
食の大正、昭和史