2009年07月30日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第三十六回 月守 晋
●関東大震災(4) 地震で住居を失いほとんど着の身着のままの被災者を苦しめたのは飢えと渇きだった。水道管は強震のため破裂し、地震発生後30分以内で利用できなくなっていた。東京市や横浜市で火災被害が大きくなったのは消火用水が使えなくなり、川や堀、池の水に頼るしかなかったためでもあった。 渇きに苦しむ被災者のうちでもねじ切られた水道管が吹き出す水を飲めた人たちはまだしも幸運だったかもしれない。 『手記・関東大震災』(参照:第33回)に回想記を寄せた服部福(当時23歳)は安田善次郎(安田財閥の創業者)邸の庭の池の水を水面に顔を入れて夢中で飲んだ。黒煙と竜巻が立ち昇る火災地獄の中をパンツ1枚の姿で逃げまどった末のことだった。 震災を生き残った人びとは飲料水の確保と共に食料の入手にも苦労した。 小学3年生の長男を頭に5人の幼児と震災前々日の8月30日に生まれたばかりの女児と6人の子持ちだった生方敏郎は、書生がほうぼう探して1斤(600グラム)ずつのビスケットとカルケット、それに少々の果物を手に入れてきてくれた。 そうこうするうちに馬場孤蝶宅から使いが来て、梅干しとかんぴょうの煮つけの入った大きなむすびが届けられ遅い昼食にありついた。(『明治大正見聞記』中公文庫) 芥川龍之介は余震がおさまるとすぐ渡辺庫輔と2人、どこからか借りてきた大八車を引いて近くの青物市場に行き、南瓜と馬鈴薯をたくさん積んで帰ってきた。 「食糧が必ず足りなくなるし、食糧難が一番こわいと言って・・・・・・。」 倉庫や倉庫内に保管されていた物品も火災に遭って消失した。東京府下の京浜倉庫連合会加盟の8倉庫には価格にして822万8636円分の内国米、44万7421円分の台湾米の他朝鮮米、外国米、大麦小麦、豆類、各種粉類など大量の食糧が保管されていたのだがすべて灰になってしまった。 9月11日に政府は一般人に玄米一升を40銭で売ることを決定しているが、この値段を基に試算してみると、国内米だけでも2万57石が焼失したことになる。 横浜でも同様に59万4239円分の国内米の他248万5440円分の外国米や台湾米、朝鮮米が灰燼に帰した。 政府は飢餓地帯と化した東京・横浜地区からできるだけ罹災者を地方へ分散させることにした。9月3日鉄道省が一般被難民の無賃利用を発表、翌日から実施した。始発駅は東北線が田端駅、信越線が日暮里駅、関西方面には信越線篠ノ井から中央線経由という迂回路が採用された。東海道線は品川-御殿場間が全線不通、東北線の起点上野駅は上野-日暮里間の線路上に被災者がひしめいていて使用不能になっていたのである。 震災地には戒厳令が布かれ、①公務旅行者、②東京市内に帰宅を必要とする家族がいる者、③多量の食糧を携帯する者、以外は東京市内には入れなくなった。 こうした処置によって16日までに東京市から297万人が退去し、190万人が入京した(『明治・大正家庭史年表』)。 皇居御堀端の日比谷公園はテントやバラック建ての並ぶ避難地になっていたが、9月下旬にはこの公園から有楽町一帯に400余の露店が並んでいた。おでん屋、ワンタン屋、雑炊屋、すいとん屋、汁粉屋、うどん屋、稲荷(いなり)ずしなどで多くは被災した家庭の主婦や娘さんがくらしのために始めた露店だった。代金は10銭から20銭だった(『下町今昔』秋山安三郎 / 永田書房)。 |
食の大正、昭和史