2010年06月09日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第七十八回 月守 晋
●朱雀御坊の長屋ぐらし(2) 『聞書京都の食事』に紹介されている京都の野菜の料理を次に引用してみよう。 はりはり鍋 京菜とくじら肉の鍋。 カツオ節とこんぶでダシを取り吸い物より少し濃い目に味つけし、京菜のぶつ切りとくじら肉の薄切りを入れて煮る。 京菜は煮すぎないように歯ごたえを残す。 以上の他に堀川ごぼうの煮しめやきんぴら、聖護院だいこんと油揚げの短冊切りの煮物、えびいもの炊いたん(1個が300gを超す大きな里いもの子いもを炊いたもの)、鷹ヶ峰とうがらしの焼いたん(長さが14~15cmもある緑色の大とうがらしを素焼きする)などがあげられている。 市電の七条線が昭和3年には七条千本まで延びており、9年には西大路七条までさらに延ばされた。 『京都の市電』(立風書房/1978年)の写真ページに「七条線の中央市場付近」の写真が掲載されているが、買い物籠を下げた婦人たちに混ざって志津さんもこのあたりを歩いたかもしれない(中央市場がそのころすでに設けられていたなら、の話だが)。 ともあれ急なくらしの変化にとまどいながらの志津さんの長屋ぐらしは始まったのである。 志津さんが長屋ぐらしを始めていちばん困ったのは、共同で使わなくてはならないトイレであった。 志津さんはそれまで借屋とはいえ一軒家に住み、結婚話が起きたころに住んでいた神戸市林田区金平町の家は養母みき(養父は大正4年に死亡)が苦心して手に入れた自宅であった。 トイレに入るのに他人を意識しないですんだのである。 しかし長屋の共同便所となるとそうはいかない。 住人はみなそれぞれ勤め人だったから、朝の出勤前にはよく鉢合わせすることになる。 男たちが出かけた後は隣家や前の家の子どもや小母さんたちの番になる。 使いそびれて我慢をしているうちに経験したことのない便秘に襲われたという。 しかしやがて他人の気配が消える時間帯が来ることに気づき、その時間に用を足すようになって便秘から解放されることができた。 朝7時には哲二を送り出し、その後は朝食の後始末をして掃除、洗たくをする。 洗たくといっても2人分だからたいした量ではないが1週間ごとに持って帰る哲二の作業服を洗うのは一仕事だった。 電車の修理作業に携わっていたから旋盤を使うことが多く、作業服には機械油が染み込んでいた。 その油を抜くために、石けんを塗りつけた後水に浸しながらすりこぎのような棒で叩かなくてはならなかった。 |
食の大正、昭和史