2010年11月17日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第 百 回 月守 晋
●首都「新京」でのくらし(5)―路上の食べ物 子どもたちの報告の中でいちばん多かったのは路上で売られている食べ物のことだった。 社宅街にも中国人の食べ物売りは入って来た。 1輪車の台の上に直径50~60cmはある大きな餅を乗せて売りに来た。 白い餅の上にあずき色のインゲン豆を2~3cmの厚さにのせて蒸した餅である。 餅が冷めないように何重にも白い(かつては白かった)布がかけられいちばん上に綿入れのふとんをかぶせてあった。 子どもたちに「買って!!」とせがまれても志津さんは断固として拒絶した。 綿入れぶとんはほこりと手垢で黒々と光っていたのである。 四つ角のちょっとした空き地に大きな鉄鍋を据えつけて肉団子を売る中国人もいた。 鍋は円筒の罐の上に載っていて中で油が煮えている。 火力は木炭だったろうか。 豚か鶏の挽き肉をピンポン玉ほどに丸めた団子をこの油の中に放り込んで客の見ている前で揚げてくれるのである。 こんがりと茶色に揚がった団子はいい匂いがして美味しそうに見えた。 志津さんはしかし、この団子を買うこともなかった。 志津さんや子どもたちの耳には「ワンズユダゴ」と聞こえる肉団子の肉が何の肉だかわからない。 正体不明のものは買わないのが子どもの健康を守る手段であった。 同じ油に鶏卵をばんと割って沈め、揚げ卵にして売ることもあった。 康徳6(昭和14)年当時で新京では鶏卵10個の小売値は77銭だった。 1個7銭7厘である(東京では5銭)。 前年には4銭8厘だったから1.6倍の値上がりである。 太平洋戦争開始後に物価は年々上がっていったから、子どもたちが街頭で見た揚げ卵の値段も1個10銭はしたのではないだろうか。 たびたび引用させてもらっているが『少年の曠野―“満州”で生きた日々』(影書房/照井良彦)にパンクした自転車の修繕を持ち込んだ自転車屋で、店主一家と店員たちが昼食にジェンビン(煎餅)を「とくに小憎たちは見ているこっちが憎らしくなるくらいたくさん」食べるのを見せられたと著者が書いている。 「ジェンビン(志津さんたちはチェンピンと覚えていた)」はいわば中国風の“薄焼き”または「クレープ」である。 材料は小麦粉にトウモロコシ粉、またはコウリャンの粉を混ぜたもの。 街頭のチェンピン屋は肉団子屋のと同じような罐の上に鉄鍋の替わりに厚い鉄板を載せている。 この鉄板で小麦粉+トウモロコシ粉(またはコウリャン粉、または3種類全部)を水で溶いて焼くのである。 直径30cmほどの大きさに焼けたチェンビンに生ネギや中国味噌をくるくると巻きこんでかぶりつく。 これは志津さんの衛生観念に照らしても合格で、子どもたちはたまに買ってもらって食べたのである。 トウモロコシの粉に少量の小麦粉を混ぜてねり、セイロで蒸した一種の饅頭(マントウ)もあった。 形は円すい形で、底のほうから空洞になっている。 志津さんの3男は苦力(クーリー、中国人労働者)が昼食に食べているところを見ていたことがあったが、この空洞にネギと味噌を詰めてかぶりついていた。 副食は生の茄子が1本だった。 |
食の大正、昭和史