2010年07月28日
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43「カルビーのかっぱえびせん、昭和39(1964)年。江崎グリコのポッキーチョコレート、昭和41(1966)年。森永の……」 『うちのご飯の60年』には「祖母・母・娘の食卓」と副題がついています。 著者の阿古さんはノンフィクションライターで生活史研究家と紹介されています。 1968年の生まれです。 この母娘3代にわたる「食生活史」は祖母の土間の台所、母の板の間キッチン、娘のにぎやかな食卓の3部に分かれ上掲の文章は娘のにぎやかな食卓の第11話の冒頭の部分。 この文章につづいて「森永のチョコフレーク、チョコボール、昭和42(1967)年。森永の小枝チョコレート、ヤマザキナビスコのリッツ、東鳩のキャラメルコーン、昭和46(1971)年。……」と昭和50年までに発売されヒットした市販のおやつが列記されています。 著者によれば、著者が「子どものころに出合い、今も愛してやまない市販のお菓子のほとんどは、私が生まれた昭和43(1968)年の前後10年ぐらいの間に出そろっている」そうです。 著者の母は昭和14(1939)年に広島県山縣郡筒賀村(現安芸太田市)で生まれました。 母親の秀子さんは10歳ぐらいのとき、広島市で働いていた一番上のお姉さんをたずねて行ってアイスキャンデーをご馳走してもらいました。 ソーダ色やピンク色のカラフルなキャンデーを喜んで2本も3本も食べているうちに、おなかをこわしてしまったそうです。 筒賀村で著者の母親が食べたおやつはみな著者の祖母の手づくりの干し柿、かち栗、むかご、トウモロコシ、蒸したサツマイモなどで、村のよろず屋が扱いはじめたアンパンやクリームパンが目当てで母親の秀子さんたちは稲の草取りや稲刈りなど親の(つまり祖父母の)手伝いをしたと書かれています。 母親の秀子さんは昭和39年に関西で新婚生活をスタートさせました。 農村風景の残る郊外の賃貸アパートでくらし始めた秀子さんは新婚の3ヶ月間、1日も同じ料理を食卓にのせなかった、といいます。 秀子さんが新米主婦だった昭和40年前後は主婦雑誌の全盛期で、別冊付録は料理本が主流だったのです。 やがて子ども(つまり著者姉妹)を持った秀子さんはホットケーキやドーナツを手づくりでおやつに食べさせるのですが、昭和50(1975)年に1戸建住宅に引っ越すと間もなく念願のガスオーブンを手に入れ、おやつにクッキーやマドレーヌ、ケーキなどを焼き始めます。 著者も手を出してお菓子づくりを手伝い、作り方を教わります。 星やアヒル、ひいらぎの型でマドレーヌより硬いタネを抜いて焼きあげたクッキーは、スーパーで売っているどのお菓子より、お土産にもらう缶入りクッキーよりおいしかったと回想しています。 |
チョコレート人間劇場