2009年04月01日
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12. ガッタンコッコ ガッタンコ 昭和8(1933)年、東京の夏は「東京音頭」に制圧されていました。この年11月号の雑誌「改造」に評論家の高田保が書いています。「何処(どこ)かの店先でこの1枚をかける。音曲は流れて街路の風に乗って吹きめぐる。 〽ハァ、東京よいとこ チョイト と来る。するとまず第1に近くの紙芝居の前に集まってゐた子供達がヤートナソレヨイヨイとやりはじめる。通りかかった日支軒の出前持ちがワンタンメンののびるのも忘れてその中へ一枚加はり出す。孫を迎へに来たお爺さんが踊り出し、それを探しに来たお婆さんも一緒になり・・・」と。 東京音頭の熱狂はその次の年も、翌々年も続き、やがて全国で歌われ踊られるようになりました。そして平成の夏に到ってもほうぼうで歌いつがれ踊られつづけていることはご承知のとおりです。 ちなみにこの年、もう1つ大流行したのがヨーヨーで、各地で競技会が開かれ、ヨーヨーの生産は月産500万個に達したといわれています。 「東京音頭」の作詞を手がけたのは西条八十(やそ)で、当時は早稲田大学仏文科の教授でした(作曲中山晋平/歌:小唄勝太郎+三島一声)。 西条八十はそれまでにも「サーカスの唄(うた)」や「涙の渡り鳥」「侍ニッポン」などという映画の主題歌も多く作詞しており、流行歌の作詞家としても著名でした。昭和10年には日本映画史上の大ヒット作「愛染(あいせん)かつら」の主題歌も作詞しています。 しかしもちろん、流行歌の作詞は詩人としての彼の一面にしかすぎません。大正元(1912)年、「早稲田文学」に「石塔」を発表して以来、抒情詩人として、また童謡詩人として高い評価を受けていました。 大正13年には早稲田大学の留学生としてフランスへ渡り、ソルボンヌ大学で2年間学んでおり、その間に詩人ポール・ヴァレリーや多くのフランス詩人と交流しました。彼には『アルチュール・ランボオ研究』という大著がありますが影響を受けたのはステファン・マラルメとピエール・ド・ロンサールだといわれます。 さて冒頭の詩は彼の童謡詩人としての業績の一端です。この一節の前の節は次のとおりです。 ガッタンコッコ ガッタンコ あるへい糖は棒の形をした砂糖菓子です。 《参考》 『現代日本人詩人全集』 第5巻/創元社 |
チョコレート人間劇場