2008年12月24日
|
7. この当時は食べ物よりおしゃれにお金を使ってました。 “形態模写”の異才コロッケが得意としていた物まねに、ステージに立つ淡谷のり子の模写があります。いやいや、最近はTV番組でもお目にかかれなくなっていますから、「あった」と言うべきでしょうか。 “ブルースの女王”淡谷のり子は明治40(1907)年、青森市で生まれました。 生家は県下でも1、2を争う裕福な呉服商で、19歳の父親と17歳の母親の間に生まれた長女でした。番頭から小僧まで店で働く人たち、乳母や奥女中、中働きや下働きの女中など合わせて70人もの使用人がいたといいますから、大金持のお嬢さまだったわけです。 食事はもちろん使用人とは別メニュー。祖父母の部屋で3段重ねのお重の料理を食べていたというのですから、TVの江戸時代物のドラマで目にするお姫さまのくらしです。 その生活が火事やら父親の放蕩(ほうとう)やらで生家が没落するするとともに一転します。母親と妹の3人で上京したのがのり子が16歳の大正12年。のり子は東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学、昭和4年、7年かけて声楽科を首席で卒業します。女子学生の首席卒業は初めてのことだといわれます。 本人の話によると、上京したときには親娘3人が2年は楽々くらせるほどのお金をもっていたということですが、それが半年でなくなった。経済観念ゼロの母娘だったのです。 そんなわけでのり子が母娘3人のくらしを支えるために学校を休学して働き始めます。仕事は画家のモデル、それもヌード・モデルでした。 報酬は1回3時間で、美術学校が1週間で4円80銭(1回80銭x6日)、個人の画家は7円20銭だったそうで、文字通り裸一貫で月100円以上稼いでいたといいます。ちなみに東京帝国大学の昭和5年の授業料が年間で120円でした(『値段の風俗史』週刊朝日)。 学校を卒業したのり子はプロ歌手として歌い始め、たちまち売れっ子のスターになります。レコード会社のポリドールとも専属契約を結び、700円という大金を手にします。のり子はそのお金を持って銀座へ行き、高価な輸入の(当時は“舶来”という言葉が使われていました)靴や香水を買います。 そしてこの時、その他に買ったのが「沢山のチョコレート」だったというわけです。 家をつぶしてしまった父親は、仕事でよく東京へ出かけ、そのおみやげが三越のマシュマロと干しぶどう、そしてチョコレートだった。 のり子の一番好きだったチョコレートは、サクランボとお酒の入ったウィスキー・ボンボンでした。 昭和62(1987)年8月12日、淡谷のり子は静岡市民センターホールでバースデー・リサイタルを開いています。この年のり子80歳。 淡谷のり子が亡くなったのは平成11(1999)年9月22日。92年の生涯でした。歌のほうは93年末に体調をくずして以来、“休養宣言”をしていました。 太平洋戦争中、淡谷のり子も戦線の兵士慰問に駆り出されましたが、軍歌を決して歌おうとしませんでした。自伝『私のいいふりこき人生』には、彼女の“別れのブルース”を聞いていた若者が、途中でそっと立ち上がって一礼すると出て行く。若者たちは特攻隊の隊員で、彼女のブルースを今生の最後の想い出として、米艦隊に体当りするために出立したのでした。 《参考》『私のいいふりこき人生』 |
チョコレート人間劇場