4月4日月曜日、午前7時30分、下の息子からもらった、ロンドン土産のウィルキンソンの剃刀で、髭をあたっていたマドリッド市警本部警視ルイス・ベルナルの、3年前に手術を受けた胃袋が暴れだした。
原因は警視夫人エウヘニア・カレロが台所で揚げている、トスターダの煙。トスターダ、といっても大層な料理なんかじゃない。昨日の昼食に食べ残した、カチカチのパンを薄切りにして、煮えたぎったオリーブ油にくぐらせただけの代物だ。このトスターダに添えられる飲み物が、焼いたチコリ(菊苦菜(きくにがな))の根っことドングリに、本物のコーヒー豆を申し訳程度くわえた、名前だけはコーヒーと呼ばれているものだ。
ベルナルとエウヘニアが結婚して、もう41年間。その間、 ベルナルのほうは、警部補から警部、警部から警視へと地位を上げてきて、懐のほうもそれにつれて裕福になってきた。しかし、エウヘニアのほうは、41年間の、シウダッド・ロドリゴ近郊の農村娘のまんま、まったく頑固に変わっていないのだ。
息子を起こしにエウヘニアが席をはずしたとたん、大急ぎでコーヒーを浴室の便器にぶち空け、戻ってきたエウヘニアの猜疑に満ちた視線を逃れて、ベルナルはアルカラ通りのはずれにあるアパートの部屋を出た。
アルカラ通りはマドリッド市の南側、アルカラ門の立つ独立広場から、西にはプエルタ・デル・ソル(太陽の門)、東は闘牛場までの大通り。ベルナルの勤務する警察本部は、地下鉄のソル駅を地上に出て、カレスタ通りへ入ったところ。
ベルナルはこの朝も、ニューススタンドで新聞を買い、フェリックス・ペレスのバル(スナック兼喫茶店)で大ぶりのカップに熱いコーヒー、そして焼きたてのクロワッサンの朝食を摂り直した。
ベルナルが今回、扱うことになったのは、アルフォンソ12世通りにビルの最上階から降ってきた男の件だ。アルフォンソ12世通りは、独立広場でアルカラ通りと交差する通り。通りの東側に広大なレティロ公園がある。独立広場の西隣の広場はシベーレス広場で、この広場に交差してアルフォンス12世通りと並行する形で走っているのがカスチャーナ通り。
中央郵便局、証券取引所、スペイン銀行、陸軍省、国立図書館、裁判所などがこの周辺に集まっている。
さて、死んだ男はラウル・サントス・ロペス、34歳になる、独身のジャーナリスト。自殺だと思われていたが、頸動脈が鋭利な金属片で裂かれていることが判明して、殺人事件へ様相を変えた。
その日、ベルナルの輩下に警察学校卒業の巡査部長が配属されることになっていたのだが、彼の目の前に現れたのはエレーナ・フェルナンデスと名乗る女刑事。彼はその日二つの事件をかかえこむことになったというわけ。
午前10時半。
ベルナルはレティロ分署のマルティン警部とともに、サントスの部屋を調べてみた。驚いたことに、昨夜のうちに何者かがしのび込んで、部屋をかき回していった形跡があった。そして赤瓦の屋根に残る感嘆符のような血痕。
正午。
オフィスに戻ってみると、机の上に公用封筒。政務次官からの呼び出しだ。
午後1時。
ベルナルから夜中に侵入者があったこと、屋根瓦に血痕が残っていたこと、サントスは自殺ではなく他殺だと思われることの報告を聞くと、次官は青ざめておろおろしはじめた。
午後2時。
パコー・ナバロ警部から、サントスの書類入れの中に「栄光の土曜日(サバド・デ・グロリア)」としるしたメモが見つかったと聞かされた。「栄光の土曜日」とは何だ?
午後3時。
ドアの掛け金がはずれる音がして、人影が入ってきた。人影は無言で服を脱ぎ、浴室へ入って歯をみがき、香水を吹きかける音をさせ、ベルナルの隣に添い寝した。・・・
と、いうしだいで流石にスペインだよね、警官だってちゃんと人生を楽しんじゃってる。で、事件のほうはというと、これも上司の圧力をのらりくらりとかわしながらちゃんと核心に迫っちまう。
英国推理作家協会新人賞のデイヴィッド・セラフィン『栄光の土曜日』は、まさにスペインがたっぷりつまった異色のミステリーだ。