日曜日―。
電話が鳴って、レイドロウは家を出た。
妻のイーナとは言葉をかわさなかった。喧嘩さえも、長くはつづかなくなった夫婦仲。
殺人事件の現場はケルヴィングローブ公園だった。被害者は、左のこめかみに黒子のある少女だった。この黒子が、この少女の悩みの種だったのだ。
レイドロウは今朝5時30分、この少女の両親に会っていた。娘が前夜七時に家を出たきり帰って来ないと、心配している両親に。
少女の名はジェニファー・ローソン、年齢十八。ジェニファーは小ちゃい時から、黒子のせいでボーイフレンドができないのじゃないか、悩んでいたのだ。しかし、もう悩まなくてもすむ。
ジャック・レイドロウはグラスゴーの起動捜査班の警部である。年齢は四十少し前。結婚していて、十歳、九歳、六歳の三人の子供がいる。いや、正確には四人。もう一人のその子は、彼がまだ二十歳の学生の時、女
友達が産んだ子だ。レイドロウは父親になることを望んだが、彼女はその子を養子に出してしまった。名前すら知らない我が児だ。
ジェニファーの遺体はジョスリン・スクェアにあるグラスゴー高等法院に隣接する、赤煉瓦の壁の〈死体安置所〉に運び込まれた。
スコットランド第2の都市グラスゴー。第一の都市はエディンバラだ。イギリス政府観光庁のガイド・パンフレットによると、グラスゴーは「スコットランドのエンターテイメントの中心都市」だとある。エキサイティングなナイト・ライフ、土曜日の午後のサッカー試合でも知られていると。
しかし、ウイリアム・マッキルヴァニーの描くグラスゴーは、「人がみな自分の名を秘している街ではなく、人と人とがやたらに接しあう街」である。そして、この街の中の生活にひたりながら捜査を進めていくのが、レイドロウのやり方なのだ。
レイドロウの上司や同僚の、彼をみる眼は好意的とはいいがたい。警視長は「いささか規格はずれ」の男とみている。それは彼が事を手掛けるとき、必ず街のどこかへ雲がくれするからであり(レイドロウに言わせれば「旅人になる」のだ)、ときとして連絡まで絶ってしまうからだ。同僚のミリガン警部に言わせれば、「自分がどっち側の人間かわかっていない」人間で、「ドイツ軍のヘルメットをかぶり、スコットランド高地連隊の軍服を着て、両戦線の間を走りまわっている男」なのだ。
捜査をすすめるうちに、殺された少女は両親に嘘をついて、ボーイフレンドと〈ポピーズ〉というディスコへ行ったことが分かった。相手の男の子の名はトミー。
トミーのファースト・ネームが何なのか、どこに住んでいるのか、レイドロウは手ずるを頼って町を動き回る。相棒は若い、捜査班に配属になったばかりの、ブライアン・ハークネス刑事。
しかし、トミーを捜していたのは、レイドロウたちばかりじゃなかった。〈ポピーズ〉の真の出資者で、トミーが警察につかまって〈ポピーズ〉のことをはじめあれこれしゃべってもらっては都合の悪い競馬賭博の胴元
マット・メイスン。自分の手で娘の仇を取りたがっているジェニファーの父親、バッド・ローソン。ローソンはかつて、えげつない傷害事件の重要容疑者だったことがある。
メイスンが千ポンドで雇った殺し屋は、空巣(ガミ)専門のミンティ・マグレガーで、あと一ヶ月の命に、妻子のために保険をかけたかったのだ。もちろん、保険はメイスンの払う仕事料だ。
犯罪の捜査に情報屋(ハト)は必要悪?だが、レイドロウは情報屋の一人エック・アダムスンから思いがけない情報を耳にして、事件の核心に迫ることができた。〈ポピーズ〉の経営者で、いっぱしにらみをきかせているハリー・レイバーンが、ホモ・セクシュアリティだというのだ。殺された少女の傷の個所から考えて、ハリーと犯人との関係は濃厚だ。
見張りにつけた警官の通報で、ハリーの後を追ったレイドロウたちが市の接収地17番の建物で発見したのは、少年を追い駈けているバッド・ローソンだった。
少年を殺すと、荒れ狂っているローソンにレイドロウは叫ぶ。
「悪いのは少年だけじゃない。ジェニファーの人格さえ認めてやらなかったあんたにも責任の一端はあるんだ」
ウイリアム・マッキルヴァニーの『夜を深く葬れ』(原著の題は『レイドロウ』)は、1977年のイギリス推理作家協会賞のシルバー・ダガーを得た作品だ。ジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』だった。
この小説はよくある警察小説じゃない。呼吸する街との人間の、現実の物語なのだ。