茶色の瞳をしたブロンドで、シャネルの香りのするリンダの暖かい身体から手を離して受話器を取ってみると、マーフィーが年寄り特有の乾いた笑い声を立てた。
金曜日の夜中の3時だ。
町会議員の息子が、船外エンジンのスクリューに引っかけられたという。いっしょにいた娘が、議員の息子を引っぱり上げた。その娘から、事情を聞かなくちゃならない。そうなると、れっきとした捜査だから、警察署長としては、リンダの裸の下から左腕を抜いて、手錠のパウチと38口径のコルトの警察拳銃(ポリス・スペシャル)を携帯して出かけなくちゃならないのだ。
リード・ベネットが警察署長をしているマーフィーズ・ハーバーの町は、カナダ・オンタリオ州の、トロントから週末に通える距離にあるリゾート地の町だ。
細長い湖のそばの町で、メイン・ストリートがただ1本通っていて、片側に商店街が並び、もう片側がすぐに湖になっている。
細長い湖の南北に閘門(ロック)があって、セイル・ボートやクルーザーやら、夏期住人(コテージャー)や観光客を乗せた船が、1時間半ほどのうちに最大45隻は出入りする。
湖ではもちろん、釣りもできる。マスキーと呼ばれている体長1.50m、体重30kgになるやつや、ピカレルという小型のカワカマスなどだ。
商店街には不動産屋とビール店が一軒ずつ、賄いつき宿屋が数軒、それに金物兼釣り餌屋、署長のために朝食を作ってくれる食料品店、がある。湖水側には湖畔亭という居酒屋とマリーナ。
かつて、カナダ最大の都市トロントの刑事だったベネットが、こんなひなびたリゾートの町へ腰を落ち着けるようになったについては、それなりのわけがある。
彼は非番の日に、三人がかりで若い女をなぶりものにしていたワルのうち、1人を死人にし、1人の腰を折り、残る1人にも怪我を負わせた。3人とも暴走族(バイキーズ)で、死んだ1人は身長192cm、体重120kgはある男で、もう1人はナイフを持っていた。ベネットはカナダ人義勇兵としてベトナム戦争に参加した。3人の暴走族に立ち向かえたのは、そのころに体得した、警察学校では教えてくれない技のおかげだった。
翌朝マスコミがそのことを取り上げると、非難は彼の方に集中した。彼の妻は1週間耐え、彼自身は3週間耐えた後でバッジを返したのだ。
オンタリオ湖畔のトロントは、5大湖によってアメリカのバッファローやクリーブランド、さらには自動車工業の町デトロイトや全米第2の都市シカゴとも結ばれている。さらにいえば、セントローレンス川によって大西洋とも結ばれている。
トロントという地名はインディアンのもので、1830年代の半ばまでは、イギリスの植民都市として、英王室の王子の名にちなんでヨークヴィルと呼ばれていた。この町のランド・マークはCNタワー(カナディアン・ナショナル鉄道)で552mもある。このタワー中ほどにある展望台からの眺めは、視力の自慢競べにいい。地平線と水平線のはてまで見えるから。
さて、マーフィーズ・ハーバーにもどろうか。
町会議員の息子がスクリューに引っかけられたのは、ボートが何かにぶつかって、湖水に投げ出されたからだった。場所は湖のインディアン島の東だ。
翌朝、警察艇を出して調べてみると、モーターボートがぶつかったのは、4mほどのシダー・ストリップ、つまり釣り舟だった。釣り舟には釣り道具箱と、釣り竿が2本、使われないまま残っていた。そいつはフェリー・ビーチでロッジを経営しているロス・ウインズロウの持ち舟だった。
ウインズロウのロッジを訪ねてみると、背の高い、上品な、ブロンド美女が駆け寄ってきた。女は連れの男2人が行方不明になったと訴える。
女はザ・シティ―ニューヨークからやってきた。その女から事情を聞いていると、閘門管理小屋から、男の死体が流れついたという連絡だ。男は45歳ぐらい、でっかい図体で、黒い髪だ。どうやら、女の話の2人のうちの1人らしい。頭にひどい傷口のある男の死体は、38口径のスミス&ウェッソンを身につけていた。
事件はどうやら、ベネット署長にとっては、手ごわいものになりそうな雲行きだ。
署長(チーフ)とはいっても、町の警察はベネットがかぶっている制帽から下が全警察署なんだから。他には犬のサム(これが並みの警官以上なんだよ)と、第2次大戦で脚に弾丸傷を負ったマーフィー老人が嘱託でいるだけなんだ。
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元ベトナムの義勇兵を主人公にした『雇われ署長』(テッド・ウッド/伏見威蕃記/早川書房)はこの分野では珍しくもカナダ人作家のもので、アメリカのスクリブナー社が1982年に作った、新人を対象とする犯罪小説賞を1983年に受賞している。
カナダには5百万とも2千万ともいわれる数の湖があるそうで、オンタリオ州政府当局の統計では、オンタリオ州に120万、全体ではその倍あるという話だ。
この犯罪小説の舞台になっているマーフィーズ・ハーバーの町は、そんな数多い湖の一つの湖畔の町というわけだが、実は、作者のウッドがコテッジを持っている実在の町をモデルにした仮空の町なのだ。
でも、著者のあとがきによると、事情通には、地図を頼りに、モデルになった街を探すという楽しみの可能性もあるらしい。
そういう楽しみともう一つ、アメリカに近いカナダという国が、アメリカから受けている影響の一端がわかるという、そんな余得もあるみたいだ。
ミステリーの町々