2008年10月08日
|
4. 幾合(デシ)かのぶどう酒と幾片かのホワイト・チョコレートのあいまに、 1954(昭和29)年の日本の読書界では、1冊の翻訳小説が評判を呼んでいました。小説のタイトルは『悲しみよこんにちは』、作家の名はフランソワーズ・サガン、当時、18歳の少女でした。話題を集めたのは、愛する父親を奪われまいとして、父親の愛人をワナにはめて自殺に追いやってしまうという、いわば反社会的な内容もさることながら、書き手がわずか18歳にしかすぎない少女だ、ということでした。 少女の小説は本国のフランスで初版の4500部が1年後には33万部の売れゆきとなり、日本の1年遅れでアメリカでも翻訳されてベストセラーになり、前後して世界各国語に翻訳出版されて読まれました。 フランス本国で54年5月に出版されたこの小説は、それからの5年間で当時の日本円で1億円近い印税をもたらしました。54年当時、日本の公務員の初任給は8700円でしたから、現在の価値になおすと(基本給181400円/08年/人事院)約20億円ということになります。 最初の印税でジャガーのスポーツカーと豹(ヒョウ)の毛皮を買った少女はその後、スキャンダルの女王になります。 友人でもない赤の他人を含めて、大勢の取り巻きのために気前よくキャバレーで小切手をきり、パリに高価な遊び部屋を買います。そして57年、スポーツカーで大事故を起こし「サガン交通事故死」のニュースが世界中を駆けめぐりました。 しかしサガンは奇跡的に命をとりとめ、退院後に出会った20歳も年上の出版業者と結婚します。58年のことで、サガンは22歳。結婚は2年後に破局、この間にサガンの第2作となる『ある微笑』が生まれます。 離婚2年後、2度目の結婚。相手はアメリカ人の彫刻家で、焼き餅焼き。息子の誕生とともに離婚しますが、離婚後、同棲した2人の関係は7年続いたといいます。つまり、結婚にはむかない女性だったのです。 この同棲生活も破局し、サガンは精神安定剤の乱用やアルコールの中毒症に陥ります。さらにもう一つ、救いようのない病いにとりつかれます。 賭博(とばく)、かけ事です。一晩で何億もの大金をすり、フランスでは5年間、カジノから出入り禁止になりますが、外国に遠征してまでのめりこみます。賭博は「精神的な情熱」だというのが、彼女の言いぶんでした。 さて冒頭の言葉にもどりましょう。 事故の傷がまだ完全には癒えていないころ、ある雑誌の編集者の要求に応じて、未完成の戯曲の一部を送り、それが掲載されます。それはサガンが周囲にいる友人たちを楽しませるために書き始めたものだったのですが、全編を完成させろという編集者の説得を検討するために、スイスの山中の村に滞在した彼女は「とつぜん思いついた」のです。 つまり、「この戯曲を私自身にとっても象徴的なものとすること以外に、救いとする手段はない」と。 3週間で書きあげられたこの戯曲『スウェーデンの城』は舞台にかけられて大成功をおさめ、サガンの「演劇との出会い」になったのでした。 「悲しみよこんにちは」というタイトルは、エリュアールの詩の一節です。 参考 : 『私自身のための優しい回想』 朝吹三吉訳 / 新潮社 |
チョコレート人間劇場