月守 晋

ミステリーの町々

ミステリーの町々 ⑮ロンドン

70年代の終わり頃、ひと月ほど仕事でアメリカに滞在したあと、ニューヨーク経由でロンドンに渡った。
空港からは、バスで市内に入ったのだけれど、夕ぐれの、窓のそとを過ぎていく光景を目に入れたときの、なんともいえない安堵感は、今でもはっきりと思いだすことができる。
道は狭く、迫っている家々は小さく、風景全体に薄い紗の幕がかかっていて、映画の一シーンのようにおもえた。シカゴのオヘア空港や、ニューヨークのラガーディア空港のそとの光景とはまるで違う。あそこで受けた感じはとてもアグレッシヴだった。それにあの猥雑さ。

翌日、市内見物に出かけた。
まずロンドン塔へ行って、赤い制服のビーフォーターと写真をとった。牢獄やら処刑場跡を見て、なにやらいわくのついた、馬鹿でかいダイヤのついた王冠を見た。それからセント・ポール寺院を見て、ピカデリー・サーカス近くのパブで遅い昼食をとった。半パイントのビターとローストビーフのサンドイッチ、それにキドニーパイ。キドニーパイは少しオシッコの匂いのするほうが、なんていう人もいるけれど、・・・・ねぇ・・・・。
夕方、ヘイマーケットのオレンジ・ストリートにあるバーバリの店で、ねらっていたコート(替え上着)を買った。日本で買う値段の3分の1だった。
2日目、朝早くバッキンガム宮殿に出かけて、騎馬衛兵の行進と交替式を見物した。そのあとセント・ジェームズ・パークをぶらついて、びっくりした。パンの耳をさしだしている老婆の手に、小鳥が群がっていて、なんと雀までが仲間に加わっていた。
ロンドンでは、あれもこれもやりたいことがたくさんあったのだけれど、滞在日数が短かったせいもあってか、ほとんど果たせなかった。ハロッズの喫茶室で、紳士淑女にまじってイギリス式のお茶を味わうこともその一つだったし、ウィーンザー駅前にあるマダム・タッソーの蝋人形館も見物できなかった。
この蝋人形館では、ダイアナ妃やチャールズ皇太子をはじめ、世界中の有名人にあえる。日本人でただ一人、仲間に加えてもらっているのが、葉巻と白足袋の吉田茂だ(戦後の保守政治家)。
お目当ては「恐怖の部屋」だった。この部屋にはギロチンで首を切られたマリー・アントワネットや、史上に悪名高い殺人鬼たちのデスマスクが展示されている。

マダム・タッソーはスイスのベルン生まれ、パリで蝋人形館をもっていた叔父のもとで、技術を学んだ。1794年、フランソワ・タッソーと結婚。フランス革命のとき、王党派と疑われて、革命派のリーダーやギロチンの犠牲者のデスマスクを造らされた。自身も投獄されたが、釈放されると息子二人を連れてロンドンにわたった。1802年に初めて蝋人形を展示したとき、持ってきていたマスクが役にたった。むりやり造らされたデスマスクだったが、ギロチンで断首されたものということで、イギリスの大衆の大評判をよんだのである。

マダム・タッソーの蝋人形館にはいけなかったけれど、1986年に「マダム・タッソー」の名前をずばりタイトルに使ったミステリーが出版された。作者はピーター・ラブセイ、シルヴァー・ダガー賞をもらった訳書名「マダム・タッソーがお待ちかね」(早川書房)である。

時は1883年3月。所はロンドン。ある高級写真館の助手が毒殺され、スコットランドヤードは、館主の妻ミリアム・クロウマーを逮捕した。彼女は罪を告白し、絞首刑が確定した。しかし、内務大臣のもとに送られてきた一枚の写真が状況を変え、クリップ部長刑事がひそかに再調査を命じられたのは、死刑執行の12日前だった。

このミステリーの面白いところは、脇役として、そのときがくればミリアムの首に縄を巻きつけるであろう死刑執行人が登場することである。彼、ジェイムズ・ベリーはメリルボーンにあるマダム・タッソー蝋人形館の「館主殿」宛に手紙をしたためる。
当時、処刑者の死亡時の着衣は、「不快な任務を果たした執行人のものになる」習慣だったらしい。ベリーは、蝋人形がその元となった人物の着衣を実際に着ていることで、世人の好奇心をたかめていることを知っていた。彼は「本件既決囚の着衣のお買い上げについてご相談いたしたい」と書くのである。
19世紀末のロンドンの匂いがプンプンする、こんなミステリーもたまにはのぞいてみては?

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