【あの雑誌が創刊号のころ】■面白半分 Half Serious■
1999/10/15
中綴じ、A5版、100ページの、企業の宣伝誌のような、小金持ちの二世、三世が自分たちが関心のもてる話題だけを集めて雑誌の形にしたというような、月刊誌「面白半分」
が創刊されたのは昭和四十七年一月五日。定価は百五十円。
誌名の「面白半分」には本文79ページに断り書があるように先駆者がいて、宮武外骨という。外骨は反骨的ジャーナリストとして著名で、不敬罪で刑務所にたたき込まれたり、
せっかく出した雑誌がたびたび発禁処分を食らうなどした。外骨の「面白半分」は昭和四年に出た。「面白半分」を英語ではハーフ・シリアス、つまり「真面目半分」という、と
「編集後談」にあるが、辞書にはhalf-seriousは載っていない。
巻頭の「舌随」つまり談話をもとに文章にした随筆、は大岡昇平、金子光晴、岡本太郎、山藤章二、開高健の五人。五人五様の内容・話ぶりでおもしろい。
「奇人外伝」と題する対談はこの号の編集長吉行淳之介と藤本義一。そのなかで藤本義一があの山下清にまつわるコワーイ話を紹介している。山下清は貼り絵の天才といわれた知
的障害者だ。上半身裸にリュックをかついで、全国を放浪して歩き数々の貼り絵を製作した。その放浪記がTVドラマや映画にもなって、このころは有名人だった。
藤本はそれを脚本化し、舞台にかけた。その初日前日の記者会見の会食の席で、「今まで一番印象に残ったことは」と聞かれた清が、九州を放浪中に見た電車の人身事故の話を始
める。そして、食べている最中のビフテキをフォークで刺し上げて指さしながら「頭が割れて、その割れ目のとこがちょうどこのポツポツしているところとそっくりだった」。記
者たちはみんなビフテキを喰うのをやめてしまった。会食が終わって清が藤本に耳元でささやいたそうである。「藤本さん、みんな嫌がったね」
巻末に「マチョ イネ ひとに出会う」と題した紀行が載っている。筆者は西江雅之、言語学・文化人類学者である。
このマガジンを提供しているカルテディエム社の社長は学生時代、このひとのお父さんに英語学を教わったはずだ。
西江雅之教授のほうは子どものころ、ほとんど野生児だった。しかし、高校生のときには「スワヒリ語・日本語辞典」を独力で作ったというから、語学の天才でもある。
題名になった「マチョ イネ」の意味は、「マチョ」がスワヒリ語で「目玉」、「イネ」が「四」で、つまり“四つ目”だ。
教授は典型的日本人らしく(?)眼鏡をかけているのだ。この紀行は後日、単行本になった。専門の文化人類学のほうでは朝日出版社から、吉行淳之介
との対談形式による『サルの檻、ヒトの檻』が出ているから、一読されるといい。
さて「面白半分」は半年ずつ、藤本義一、開高健、田辺聖子、五木寛之らが編集長を交代で務めたが、野坂昭如編集長の四十七年七月号で「四畳半襖の下張」を掲載し、わいせつ
文書販売の罪で起訴された。この裁判は五十五年十一月、最高裁が有罪判決を出して法律的に決着したが、日本の文化、社会の問題としてはまだ論点を残していると思われる。裁
判記録は臨時増刊号として公開されている。