月守 晋

あの雑誌が創刊号のころ

【あの雑誌が創刊号のころ】■SHUTTER シャッター■

■SHUTTER シャッター■
1999/6/4

「ホンネで時代を読む IMPACT PHOTO MAGAZINE 」と角書きのついた写真雑誌「シャッター」は、中綴じ96ページの体裁ながら、毎月一日発行の月刊誌として創刊された。
昭和58年4月1日付け、定価300 円、インデックス出版。

昭和57年2月8日、東京赤坂にあったホテル・ニュージャパンの9・10階が焼け、死者33人、負傷者27人を出した。
被害者が多く出たのは天井にスプリンクラーもない、防火施設の貧弱な欠陥ホテルだったため。
社長の横井英樹は火災直後は、「遺族にはどんなことをしても補償します」といっていたが、いざという時には手の平を返したように「金がないのです」の一点張り。
天下の嘲笑と憎悪を一身に集めた。

「シャッター」創刊号のトップは、ガードマンの眼を盗んで撮ったという、火災時のまま放置された一年後のホテル内部と遺族が行った一周忌の合同慰霊祭。
TVで放映された、下着のまま窓の下の張出部分に逃れ出て、炎を必死に避けていた被災者の姿が思い出される。
被災者の中に台湾、韓国からの旅行者が多かった。ホテルは買い手がつかず、つい数年前まで無残な姿をさらしていた、のをご存じの方も多いはず。

昭和50年代の終わるころ、企業では社員の再訓練が大はやりだった。社名入りの鉢巻きを締めて、駅頭などで大声張り上げて何やらわめいたり、軍歌まがいの歌をうたったりしていたものだ。
集団合宿での訓練は深夜に及ぶことが通常で、その過酷さは大の男が号泣し訓練後には人格さえ変わってしまうほどのものだった。
しかし、それほどわが身を預けた企業からは現在、多くのサラリーマンがリストらの名の下、首切りに遭っている。
「あなたは会社のために死ねるか」と題した5ページのレポートは、さる会社の社員訓練の様子を生々しく伝えている。

この創刊号のウリ物は、昭和56年8月22日、台湾の遼東航空の墜落事故で犠牲になった作家・脚本家向田邦子さんの無残な、炭化した遺体の写真。
向田さんはこの旅行の前に乳癌の手術を受けたばかりで、その手術跡が識別の決め手になったという。

カラーは16ページ。NYウォール街、整形手術、海外ポルノ最前線、など。

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