■オードリー・ヘップバーンとチョコレート■
1999/6/25
『ローマの休日』が日本で封切られたのは昭和29(1954)年4月である。
親善旅行中の堅苦しい公式行事や束縛の多い単調なくらしにあきあきした若い王女が、ローマである夜、
寝かされていた部屋を抜け出して街へ出る。
行く宛もなく公園のベンチでうたた寝していた、この王女を拾ったのがアメリカの新聞記者。
王女を自分の部屋に泊めた新聞記者は翌日一日、スクープを狙って、ふたたび街へ出た王女をカメラマンとともに追う。
一夜と一日かぎりの、籠を抜け出した王女の自由で気儘な冒険と、打算で付き合う新聞記者。その間にいつしか愛がめばえて・・・。
という、泡立てたクリームのようなお話のこの映画で、主役のアン王女を演じたオードリー・ヘップバーンはアメリカ映画に初出演で54年のオスカー賞をとり、その三日後にニュ
ーヨークの四十六丁目劇場で演じていた『オンディーヌ』の水の妖精で最優秀舞台女優賞のトニー賞(正式にはアントワネット・ペーリー賞)をも獲得した。
白黒のスクリーンで初めてヘップバーンを観たとき、その異様な美しさに息をのむ思いをしたものである。ことに、その大きく光る眼に。
鼻も口も大きすぎたが、奇妙にバランスがとれている。そして何よりも、画面から伝わってくる清純さ。
オードリー・ヘップバーンはオランダの由緒ある男爵家の末裔である。
母親のエラがファン・ヘームストラ男爵の三女で、貴族出身の侍従武官と離婚した後、アングロ・アイリッシュのジョゼフ・ヘップバーン=ラストンと再婚、オードリーを生んだ。
オードリーの本名はオードリー・キャスリン・ファン・ヘームストラ、1929年5月4日、ブリュッセル生まれ、国籍はイギリス。(以下、集英社『オードリー・ヘップバーン』より要約)
父親は才能のないビジネスマンで、経済的な問題で母親と口論が絶えず、乳母や家庭教師に囲まれていたオードリーは、ヘームストラ男爵の城館の庭に逃げだして隠れるか、チョ
コレートやパンを食べて気をまぎらせていた。そして五歳のとき、イギリス・ケント州の寄宿学校に送りこまれている。
1939年、第2次世界大戦勃発。母親はオードリーをこともあろうに、ドイツ国境からわずか十二マイルのオランダの町、アルンヘムに連れ戻していた。
ドイツはわずか五日間で全オランダを制圧、やがてオランダの食料品が肉、卵、バター、紅茶、コーヒー、リンゴなどすべてがドイツ兵士を養うために”オランダ国民からの贈り物”として持ち去られる。
ファン・ヘームストラ男爵家はいくつも持っていた城館や土地、預金、家財、宝石などすべてを没収された。
しかも被害は身内の命にまで及び、オードリーが好きだった伯父(母親の姉の夫)は、地下抵抗組織の行った爆破計画の報復として、
なんの関係もないのに銃殺され、父親違いの兄の一人は軍需工場で強制労働に就かされていて生死不明となった。
少数のナチス協力者をのぞけば、オランダ人はみな飢えに苦しんでいた。
オードリーたちも例外ではなく、薄いスープとグリンピースのパンで飢えを凌ぎ、がりがりに痩せ、顔色も悪かった。
急に背が伸びたため、眼と手足の大きいのがことさら目立つ少女だった、という。戦争末期にはチューリップの球根から作る粉が食料になった。
そして同じ時期、あのアンネ・フランクは違う町の工場の屋根裏に、息を潜めて隠れていた。
1945年4月30日、ヒトラーがベルリンの首相官邸地下壕で愛人のエバ・ブラウンとピストル自殺、ヨーロッパの戦争は終わった。
その二週間ほど前、アルンヘムはイギリス軍によって解放された。
その日、オードリーはイギリス兵からもらった七枚のチョコレート・バーを一枚残らずむさぼり食べ、そして激しく吐き戻してしまった。
身長168 センチ、体重は41キロの十六歳になっていた。
後年、『アンネの日記』が刊行されて世界的なベストセラーになり、2O世紀フォックスが映画化をもくろんでアンネ役をオードリーに打診し、
アンネの父親の説得があったにもかかわらず、出演を断ってしまう。
アンネと同じ年に生まれたオードリーには、アンネの体験は自身の体験でもあり、演じられるようなものではなかったのだ。
オードリーは1988年から死ぬ年までユニセフの特別大使を務め、アフリカやアジアの未開発国の児童の援助のために働いた。
1993年 1月20日スイスの自宅「ラ・ペジーブル(静かな場所)」で癌のため死去。チョコレート・スフレが好物だったという。