月守 晋

A petty talk on chocolate

■「ザッハトルテ」の物語(1)■

■「ザッハトルテ」の物語(1)■
1999/3/19

「音楽の都」ウィーンのオペラ座(国立歌劇場)と街路をはさんで、ザッハー・ホテルが立っている。
1876年に創設されたというこのホテルは、ハプスブルク家のオーストリア帝国最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフ・世の宰相兼外相、メッテルニヒの料理長を勤めた、
エドヴァルト・ザッハーが開業したといわれる。

メッテルニヒはあのナポレオンが、エルバ島に流された後、ヨーロッパの秩序を回復するために、
1814~15年に開かれたウィーン会議で、オーストリア帝国の地位保持のために供応、買収、スパイとあらゆる手段を弄して、会議議長としての表舞台だけでなく、裏舞台
でも暗躍した狡猾(こうかつ)な政治家だ。

この会議は「会議は踊る、されど進まず」といわれて、のちに映画まで作られた。
メッテルニヒはヨーロッパ各国、各連邦、諸都市から集まった数百の代表たちの意思を、
ご馳走でとろけさせようと、自分の料理人に特別のメニューを開発させた。

その命令に応じて、エドヴァルト・ザッハーが創作したのが「ザッハトルテ」だった、というのだ。
しかし、チョコレートのトルテを創造したのは、16歳の見習シェフ、フランツ・ザッハーで1832年のこと、という異説もある。
フランツもメッテルニヒの居館の台所にいたのだろう。1832年ならば、メッテルニヒもまだ生きている(1848年失脚、59年没) 。

ウィーンには「ザッハトルテ」で有名な高級菓子店がもう一つある。コンディトライ(高級菓子店)のデーメルだ。
この両者、ザッハーとデーメルの間で、「ザッハートルテ」のオリジナル権をめぐって訴訟が起きた。1930年代末のことである。

1930年代の初め、ザッハーが経営難に陥り、デーメル夫人に経営をゆだねた。
しかし、数年して店を買い戻したザッハーの後継者が、自慢のケーキに「ザッハーのオリジナル・ケーキ」という商標をつけようとした。
これに、デーメル側が待ったをかけた。訴訟は1962年に結審した。訴訟が始まった終わるまでに、二つの世界大戦があったのだから、驚きだ。

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