2010年12月01日
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『食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年—』 第百二回 月守 晋
●在満国民学校(2) 猖紅熱は溶血性連鎖球菌(溶連菌)による感染症で2―4日の潜伏期の後40度を超す高熱、のどの痛みと扁桃のはれを突然起こし、2-3日後に唇の周囲を白く残して全身に紅い発疹(ほっしん)が出る。 舌も赤くはれ上がる。 当時は特定法定伝染病の1つで特効薬のペニシリンもまだなかったから治癒のむずかしい病気といわれていた。 感染するのは5-10歳の児童である。 猖紅熱の「猖」の字は想像上の動物で「髪長く顔赤く、その声は小児のごとく」と漢和辞典に説明されている。 発症した子どもの顔やからだが発疹で赤く変わっているのを見て「猖(しょうじょう)」を連想したのだろう。 猖紅熱と診断されると三男は病院車で新京医院内の伝染病棟に運ばれた。 哲二と志津さんが付きそった。 伝染病棟は昭和9年3月に設置されたもので、病室と見舞い人は病室の外側にある廊下によって二重にガラス窓で隔離されていた。 志津さんはその二重のガラス窓越しに三男に別れを告げた。 生きて再び会えることはないと覚悟したという。 三男もこの時の情景を、母親の思いつめたような表情とともにはっきり記憶していた。 しかし次の記憶は病状が回復に向かい発疹が乾いてウロコのようになってはがれてゆく時の痒(かゆ)さだけで、かきむしった足首から出血して看護婦さんにおこられたことぐらいであった。 病人が搬送された後の社宅は消毒のために衛生隊がやってきて大騒ぎになった。 志津さん夫妻は迷惑をかけたご近所にお詫びに回って歩かなくてはならなかった。 三男の入院は1か月以上の長期にわたり、その間に太平洋戦争の開始があって学校でも何らかの行事が行われたはずである。 たとえば新京神社への全校生徒による戦勝祈念参拝といったことである。 ちなみに新京神社は駅前中央通りに面しており学校からごく近い。 大正元(1912)年の造営で天照大神・大国主命・明治天皇が祀(まつ)られ5月15日と9月15日に大祭が行われていた。 『少年の曠野』の著者も書いているがこの頃の教師は何かにつけ生徒を殴った。 志津さんの子どもたちの中では次男がいちばん要領がよくてほとんど殴られることがなかったが、2年生になった三男は成績順に任命されていた班長として班員の罪に連座してよくビンタを張られた。 担任の男教師は2年生でしかない生徒の頬を平手ではなくゲンコツで殴り、殴られた生徒は2-3メートルもふっとばされていた。 教科の面でも軍国調が濃くなり、体操は剣道か相撲の時間になり4-5年生になると手旗信号の習得時間に変わった。 音楽の時間は敵と味方の飛行機のエンジン音の違いを聞き分ける耳の訓練時間に変わり、図画の時間は色の明度・彩度の識別が中心の授業になった。 これも軍隊で役立つと教えられたが、具体的に何に役に立つのかは教えられていない。 虚弱児童で登校拒否気味だった三男はいつしか軍隊式の学校に慣れて、元気に通学するようになり志津さん夫妻を安心させた。 しかしこの頃には何を子どもに食べさせるかが、志津さんの頭を悩ます最大の難事になった。 |
食の大正、昭和史