月守 晋

食の大正、昭和史

食の大正・昭和史 第四回

2008年10月08日

食の大正・昭和史—志津さんのくらし80年— 第四回

月守 晋

「大正も二年と進むと、そこは纔(わず)かに一年のことだが、何とはなしに世の中が一変したかのような感じが、誰の胸にも響いた。」と生方敏郎が書いている(『明治大正見聞史』)。

明治帝崩御は前年7月30日だから、実質的には5ヶ月たったにすぎないが、「華やかになるかのようにも暗くなるかのようにも、自由なようにも同時に危いようにも思われ出した」という。

新聞記者という立場に立っていたとはいえ、時代の変化・動向を鋭敏にかぎとる感覚にたけていたといえるだろう。

■ 洋食の先進都市、神戸

神戸は開港(1868年)以来、洋食の先進都市だった。明治2(1869)年には早くも元町6丁目に「関門月下亭」が牛肉のすき焼きを食べさせ始めた。その後外国人の間に牛肉は神戸が世界一という評判が広まり、明治10年には西洋料理の店「外国亭」が開業したという(『神戸と居留地—多文化共生都市の原像』神戸新聞総合出版センター)。

明治43年には牛鍋屋が35店(東京275、大阪158)、牛肉料理店も42店(東京503、大阪144)あった(農商務省/上掲書)。

神戸の西洋料理、料理法の普及には居留地に開業したオリエンタル・ホテルやインペリアル・ホテルなどの影響が強かったろうと思われる。オリエンタル・ホテルは明治3年、インペリアルは明治35年の開業。オリエンタルには明治22年にイギリスの作家キプリングが旅行記の中で「本物の料理が食べられる」と賛辞を述べ、35年に開催された日英同盟成立祝賀会では、仔牛の蒸(む)し物や鶏肉の煮込み、七面鳥の焼肉などの肉料理がテーブルに上った。キプリングは日本人給士たちのこともほめているが、厨房(ちゅうぼう=調理室)にも日本人の見習いがいたはずで、そういう人たちが西洋料理を広めることに、いろいろな形で貢献したにちがいない。

牛肉の「大和煮(やまとに)」の缶詰も神戸が発祥の地である。考案者は鈴木清という元武士で、すき焼風に味付けした牛肉が日本人の口に合うと考え工夫したのである。

大和煮だけではなく、味噌を使って牛生肉を保存しようとする店も現れている。神戸海岸通りにあった長光本店という店で、明治39年ごろには新聞広告を出すまでになっている。大和煮の缶詰はその10年前に、すでに全国的なヒット商品になっていた。

ちなみに、42年度に神戸市で屠殺された牛、豚、羊などの頭数は1万2478頭で、肉の量にして297万8103斤(斤=約600g/178万6862kg)だった。東京(6万9678頭)、大阪(1万5576頭)についで3位の多さである。

『神戸と居留地』からの孫引きになるが、神戸又新日報明治38年4月15日の新聞記事によれば、牝(めす)牛ヒレ肉100匁(もんめ=375g)の値段は50銭(東京75銭)、同ロース肉で40銭(東京65銭)だった。そばのもり・かけが共に3銭、白米1升14銭だったから牛ヒレ肉100gと白米1升の値段がほぼ同じだったということになる。

仮に上の肉類を全て神戸市民が消費したとすると、市民数30万人として1人当たり1日の消費量は約16gである。

■ 大正元?3年の食のトピックス

大正元(明治45)年
* 牛乳の生産量が年間33万石(ごく)600万キロリットルになる。1人当たりの年間消費量は800ミリリットル。
→東京ではミルクホールが大繁盛した。
* 鶏卵の生産量が年間8億個を超え、年間1人当たり消費量は16個となる。

大正2年
* 森永製菓がミルクキャラメルを発売。バラ売りで1斤(きん)80粒40銭。
→大正3年には「ポケット用、1箱10銭」と箱入りになっている。

大正3年
* 「婦人の友」買い物部が食品の通信販売を始める。浅草のり(1帖10?12銭の3種類)と味付けのり、焼のり、のりの佃煮など。
→読売新聞もライスカレー、ホワイトソース、シチューなど「西洋料理の素」を販売する。1個30銭

→東京日本橋の岡本商店が「ロンドン土産即席カレー」を販売。湯で溶いて肉・野菜を加えて使用。
15人前缶入り30銭。

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